私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります北海道の文学碑のトップに戻ります


北海道の文学碑
北の都・札幌

今から100年ほど前・石川啄木「札幌は眞に美しき北の都なり」と読んだ。
自然主義者岩野泡鳴(ほうめい)は「樹木の影がつき沿って離れないような気がする」街。と書いた。
札幌生まれの船山馨(ふなやまかおる)は「この街はちょっとほかの都市には見られない一種独特の大きな美しさを持っている。
司馬遼太郎は「札幌というまちは歩道を歩いているだけで、気分がいい。
街を歩いていて、気分が秩序だってくるというのが都市性というものである」
・高村光太郎は月寒で酪農を学ぶために一月はどいたが苦しくて帰る
・武者小路実篤が札幌農学校の有島武郎を訪ねてきている

札幌における石川啄木はこちらです
久保栄文学碑 久保栄文学碑 林檎園日記    戯曲四幕
「六月六日(月曜日) 晴。
上田の畑からもとの新畑へかけて、今日ぐらゐがもう満開で、
うちのは平均して三分咲きほど。
乳いろにうす紅をぼかした花が五輪づつかたまって咲く梢から、甘ずっばい匂ひがして来て、そこらにいっばいになるのをかぐと、どういふわけか、子供の頃 百人堀にそって山の湖水の方へかよってゐた、ガタ馬車のあのピポピポーと鳴らしてとほる笛の音が思い出されて、まだ丈夫だったお母さんが、いまわたしのしてゐいる帆前掛をかけて園内作業を してゐる姿が眼にうかんで仕方がない」
札幌市 平岸 百景園 自筆の原稿を拡大
明治33年12月28日、南2条西8丁目に生まれる。
東京帝国大学独文科卒。劇作家・久保栄は、1926年築地小劇場に入ってからの32年間、翻訳・評論・戯曲・演出・小説の分野で生きた。
平岸りんご園は久保が若いころスケッチを楽しんだ場所。
「火山灰地」は日本新劇史の最高作品と評され、平岸によりそう戦後の林檎園日記」 昭和33年3月15日順天堂病院(東京)で死す。
石森和夫文学碑
われらが愛する北海道
第一章
十一州のしずめなる  ヌタプカウシベ峰高く
われらが心をあらわして 国のも中にそびえたり
その山かげをめぐりくる、石狩川は底清く われらが心を
あらわして 大野が原を流れたり

石森和男文学碑
札幌市中央区伏見5
藻岩山ロープウェイ下 伏見東緑地
昭和33年7月27日建立。
石森和男は1860年に宮城県で生まれ、
明治29年に札幌に移住、
北海道師範・札幌一中・札幌高女で教鞭をとった国文学者である。
相良義重文学碑
霧去りて雫したたる笹の葉に  
           高山蝶が来て羽たたむ

相良義重文学碑

札幌市中央区伏見 藻岩山ロープウェー下小公園


昭和43年10月10日建立
相良は明治35年福島生まれ
4歳のときに北見に入植
石森延夫文学碑
ふるさと サッポロよ 人も 自然も 美しく あれ
石森延夫文学碑
札幌市中央区伏見5伏見東緑地
昭和56年5月31日 建立
1897年、(明治30年)和夫の長男として北海道札幌生まれ。北9条小学校で教鞭をとり、大正8年、27歳のときに札幌をあとにする。東京高等師範学校卒業。小、中、高校の国語教科書を編集。
現在 昭和女子大、フジ女子大教授。
石森和夫・延夫文学碑
石森和男・延夫父子の碑。

ロ−プウエィ山麓駅の一帯は伏見東緑地でその
一角に「石森文学広場」がある。
向かって右側に父・和夫の文学碑。
左側に子・延夫の文学碑が建っていて、
中央奥に「石森父子の碑について」の説明が見える。
全体からみた文学碑

吉井勇
吉井勇 ( 1886〜1960)
 家ごとにリラの花咲き札幌の  
           人は楽しく生きてあるらし
札幌市中央区 大通公園 西4丁目
昭和56年5月29日建立
”かにかくに祇園はこひし 寝るときも枕の下を水のなかるるの”の句も作った。近代日本の歌人であった吉井がただ一度北海道にきたのは昭和30年6月。69歳の時。歌碑をデザインした小谷博貞は「丸い窓をあけたのは両面をつなぐ意味と子どもたちにも親しんでもらいたかった」。吉井は「北海道は非常に前から憧れの土地」啄木を偲ぶ土地だったからだろう。

恋の町札幌
恋の町札幌
 歌碑(羊ケ丘展望台)

石原裕次郎

♪時計台の下で逢って 私の恋ははじまりました
だまってあなたに ついてくだけで
私はとても幸せだった
石森和夫文学碑
石森和男文学碑

荷車も輪をかたむけて危うしや
石まろびころぶ石山の里


札幌市南区 札幌市立石山小学校 校門左横
石森延男文学碑
石森延男文学碑
川釣り
川上四キロあまりいったところに、石切り山という
ところがあります。
石山軟石がとれるので山は半分ばかり切りとられ、
なまなましい石はだをさらしています。
「ぐすべりの中の川釣りの一節」
札幌市南区 札幌市立石山南小学校前庭
有島武郎文学碑
有島武郎文学碑
小さき者よ 不幸なそして同時に幸福なおまえたちの
父と母との祝福を胸 しめて人の世の旅に登れ
前途は遠いそして暗いしかしおそれてはならぬ 
おそれない者の前に道は開ける
行け 勇んで 小さき者よ 

大通り公園西9丁目
武者小路実篤 揮毫
梁田貞
作曲家 
梁田貞の胸像と童謡「どんぐりころころ」の楽譜 
作曲 梁田  貞  ・作詞 青木存義 
どんぐりころころ ドンブリコ
お池にはまって さあたいへん
どじょうが出てきて こんにちは
ぼっちゃん一緒に遊びましょ


札幌市中央区南4西7 資生館小学校
虹と雪のバラード
「虹と雪のバラード」
河邨文一郎作詞・村井邦彦作曲
歌い手 トワエ・モア

この歌は札幌で開催された第11回冬季オリンピックの応援歌
札幌オリンピックの70m級ジャンプで日本勢がメダル独占し、笠谷選手が金メダルを獲得した。
(大倉山ジャンプ競技場)

河邨文一郎(かわむら ぶんいちろう 1917年4月15日 - 2004年3月30日)は、整形外科医、元札幌医科大学教授、詩人。北海道小樽市出身。北海道帝国大学医学部卒業後、東京帝国大学医学部を経て、札幌医科大学教授。北海道の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。医師から作家に転向した渡辺淳一は、教え子のひとりである。
大倉山ジャンプ競技場
NIKE(勝利の女神ニケ)のモニュメント
(大倉山ジャンプ競技場)
虹の地平を 歩み出て
影たちが近づく 手をとりあって
町ができる 美しい町が
あふれる旗 叫び そして唄
ぼくらは呼ぶ あふれる夢に
あの星たちの あいだに
眠っている 北の空に
きみの名を呼ぶ オリンピックと
左画像→有島武郎邸跡地
森田たま生誕の地
森田たま生誕地 南1条東4丁目、土屋邸
右、有島邸跡地(白石区菊水1条1丁目)
船山馨生誕地
札幌市大通西八丁目(北むき)

私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります北海道の文学碑のトップに戻ります