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北海道の文学碑

石川啄木と札幌1907年 明治40年 満21歳 札幌
明治40年9月13日 夜函館を発ち札幌へ向かう
わずか2週間の札幌の人となる啄木にとって札幌はすべて秋の風情であった。
9月13日 向井永太郎の斡旋と小国露堂(善平)の厚意により、北門新報社(北4条西2丁目。東急デパート北口あたり)に勤める
9月16日~27日(在籍12日間)月給15円。啄木の仕事は午後2時から8時までの勤務。校正係。
「宿直室にて・・」
「詩人の住むべき地」
9月14日 札幌市北七条西4-4 田中サト宅に下宿。

札幌は寔に美しき北の都なり

アカシヤの並木を騒がせ ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ
札幌は秋風の国なり

札幌に似合えるものは、幾層の高楼に非ずして幅広き平屋造りの大建物なり、
自転車に非ずして人力車なり

札幌に、かの秋われの持てゆきし、しかして今も持てる悲しみ


小樽日報での就職の口があって27日、札幌を離れる
10月1日 『小樽日報』社出社(社長は初代釧路町長、衆議院議員の白石義郎。)。
「北鳴新報」にいた野口雨情と出会う。
「別れんとする木立の都の雨は予をして感ぜしめること多し」

石川啄木文学碑 しんとして幅広き街の
秋の夜の
玉蜀黍の焼くるにほひよ



碑側
国民的歌人として知られる石川啄木が函館・小樽・釧路と本道漂白の旅を続けたのは、二十一歳の折の明治四十年春から翌年春にかけてであった。
札幌には秋九月の二週間滞在し、北門新報社に勤めた。啄木の代表的歌集「一握の砂」は近代詩歌史上もっとも愛唱されているが、ここに刻んだ歌には明治の札幌の心情が鮮やかに詠まれている。
啄木は札幌を「美しき北の都」とも「住心地最も良き所」ともいったが、そのゆかりを想い、ことし七十回忌にちなんでこの記念碑を建立するものである
昭和五十六年九月十四日
石川啄木記念像設立期成会
石狩の都の外の
君が家
林檎の花の散りてやあらむ


添碑
明治四年曾父・父らこの地に入り森を伐り林
を焼き麦粟稗を蒔く翌五年北海道開拓使の
輸入せる林檎苗木を植林同十四年一果をなし日本林檎栽培の
黎明を告ぐ爾来この地の林檎栽培は年を追って殷盛平岸地区
で二百八拾余町歩量産二十五万箱を数う日本林檎の一大産地となり道内京濱阪神はもとより海波のウラジオストック・シベリヤ・樺太上海南方シンガポールにまで販路を拡ぐ
(中略)
明治四十年札幌を訪れのち東京に居て遠く林檎園の思いをはす歌人石川啄木の歌一首を碑に刻し往時を記念す
札幌平岸林檎園記念歌碑建設委員会
昭和四十一年十月二十三日
石川啄木文学碑
「下宿跡の啄木胸像 」(葛西 茂雄 作)
「下宿跡の啄木胸像 」(葛西 茂雄 作)
北7条西7丁目札幌クレストビル(西向き)
札幌・啄木下宿跡
啄木下宿跡(田中サト方)の案内板」

詩人・石川啄木が函館から札幌入りしたのは、明治40年(1907)9月14日のことである。札幌停車場に午後1時すぎ到着した啄木は、詩友・向井夷希微(いきび)らに迎えられ、彼らの宿でもあった「北7条西4丁目4番地・田中サト方」の住人となった。ときに満21歳。ここはその下宿があった場所である。
滞在2週間であわただしく札幌を去るが、勤め先の北門新報に「札幌は寔(まこと)に美しき北の都なり。」 の印象記を残し、またしても小樽、釧路へと放浪の旅に出た。
札幌での石川啄木
ほんの少しだけ寄付をしました。
札幌での石川啄木 石川啄木没後100年

アカシアの街樾(まちき)にポプラに秋の風
吹くとかなしと日記に残れり

札幌は大なる田舎なり。木立の都なり。秋風の郷なり、
しめやかなる恋の多くありさうなる都なり、路幅広く人少なく、木は茂りて蔭をなし人は皆ゆるやかに歩めり。
アカシアの街樾(まちき)を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ、朝晩洗う水は身に沁みて寒く口にふくめば甘味なし、札幌は秋意漸く深きなり。

  明治40年9月15日  日記より

20法人323名の個人の支援により平成24年9月15日
札幌市北区「偕楽園緑地」
札幌での石川啄木 札幌での石川啄木

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