挽歌・霧のまち 釧路 そして阿寒湖
啄木と釧路−76日間の足跡は別にリンクされています。
高浜虚子 文学碑 燈台は低く霧笛は欹(そばだ)てり 米町公園(米町一丁目) 昭和八年、釧路を訪れ「今は濃い夜霧が−このへんではガスというそうであるが、この港の町一面にたちこめているのであろう」 高浜 虚子(たかはま きょし、1874年(明治7年)2月22日 - 1959年(昭和34年)4月8日)日本の俳人、小説家。 本名・高濱清(たかはま きよし)。 |
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原田康子文学碑 |
高台から見降すと 下町には明かりがともっていた。 しかし町の明りの果ては、 広い真暗な湿原地に呑みこまれて いるのだった。 −原田康子 挽歌からー (釧路市幣舞公園 1928年東京生、二歳の時から釧路に住む。 実家は雑穀卸商兼回漕業で昭和恐慌までは豪商を誇っていたが御殿も人手に渡る。昭和24年から釧路では先駆的な女性新聞記者となる。 小説の中には一度も釧路の名前が出てこない。釧路市立高等女学校卒。東北海道新聞社の記者を経て作家。 「蝋涙」にて女流文学賞を受賞。 |
出船いま大夕焼の只中に 刀禰無句(とね むく)文学碑 昭和49年4月21日 幣舞公園 明治31年2月11日江差生まれ 昭和5年から釧路市在住 昭和43年没 |
あなたの冷たい そのひとみ 何故に私を泣かせるの 優しく抱いて欲しいのに 女心も 知らないで 貴方がにくい 貴方がにくい 「釧路の夜 音楽碑」 平成五年九月 作詞/作曲 宇佐英雄 歌い手 美川憲一 |
愛冠岬 | |
愛冠岬 愛とロマン愛冠岬 洋々たる太平洋に浮かぶ海烏の楽園小島、大黒島や厚岸湾を深く 抱く尻羽岬を望むとき、男性的神秘さが海の摩周湘として訪れる人々から親しまれております。 比の周辺ど愛冠岬は学術的にも貴重な資源が豊富であり.附近には緑のふるさと公園・野生園.樹ホ圃.北大理学部附属臨海実験所(水族館)や博物物館等がある.そしてすぐれた雄大な自然環境は道東のオアシスの地とも言われています。 平成三年五月 贈 厚岸町建青会 この岬は、数十メートルの断崖上にあり、岬からは眼前に大黒島・小島、眼下に筑紫恋海岸を望むことができ、上空にはオオセグロカモメが飛び交う姿が見ることができます。 |
作詞 田中うめの 作詞 三木たかし 歌手 松原のぶえ 遠く涙の岬を染めて 沈む夕陽に浜が泣く 波のうねりに浮かんで消える 面影ひとつ 夢ひとつ あゝ愛冠の岬よ 霧よ晴れて もう一度逢わせてよ |
阿寒湖
阿寒湖(あかんこ)は北海道東部、釧路市(旧阿寒郡阿寒町)にある湖である。
北海道で5番目に大きい淡水湖。
特別天然記念物のマリモや、ベニザケの湖沼残留型(陸封型)であるヒメマスが生息する。
冬は全面結氷し、ワカサギ釣り、スケート、スノーモービルなどのウィンタースポーツが盛んで、
阿寒湖氷上フェスティバル・冬華火などのイベントも開催される。周囲はエゾマツ・トドマツなどの亜高山帯針葉樹林、
および広葉樹を交えた針広混交林の深い森に覆われている。
2005年11月、ラムサール条約登録湿地となった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E5%AF%92%E6%B9%96より引用しました
「まりもの歌」 水面(みずも)をわたる 風さみし 阿寒の山の湖に 浮かぶマリモよ なに思う マリモよマリモ 緑のマリモ 晴れれば浮ぶ水の上 曇れば沈む水の底 恋は悲しと嘆きあう マリモよマリモ涙のマリモ アイヌの村に今もなお 悲しく残る ロマンスを 歌うマリモの影さみし マリモよマリモ緑のマリモ 阿寒町 阿寒湖畔 ボッケ桟橋付近 岩瀬ひろし(作詞) ・八州秀章(作曲) 歌い手 安藤まり子 |
野口雨情文学碑 遠く雄阿寒群立つ雲は 釧路平野の雨になる (阿寒湖温泉あかん遊久の里鶴雅) 裏側に 駒は嘶く 釧路の平野 鶴も来て舞う 春採湖 遠く雄阿寒 群立つ雲は 釧路平野の 雨となる 釧路いとしや 夜霧の中に 月もおぼろに ぬれて出る 知人岬の 波うちきはを 啼いて渡るは 磯千鳥 山は遠いし 野原はひろし 水は流るる 雲はゆく 「昭和15年9月野口雨情 連詩の一詩をここに刻む」とある 野口雨情 野口雨情は、明治15年(1882)5月29日茨城県多賀郡磯原村(現北茨城市磯原町)に父量平、母てるの長男として生まれ英吉と名付けられました。 昭和20年(1945)1月27日、永眠、行年63歳。 |
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松浦武四郎文学碑 水面風収夕照間 小舟欅棹沿崖還 忽落銀峯千仭影 是吾昨日所攀山 阿寒町 阿寒湖畔 松浦武四郎は、蝦夷地の探検をはじめ、日本の深山の探査や和歌、漢詩、絵画など多方面にわたって、多芸多才ぶりを発揮。 文政元年(1818)、伊勢国須川村(松阪市(旧三雲町小野江))に地士の4男として生まれる。 28才の年初めて蝦夷地へ渡り、38才のとき蝦夷地御用御雇い入れの命を受け、幕府の役人として更に蝦夷地の調査を行い「東西蝦夷山川地理取調図」28冊などを刊行する。 維新後は蝦夷地開拓御用掛、更に開拓判官となり北海道名、国名、郡名の選定にあたり、北海道命名者として従五位開拓判官に任命され不朽の名誉を残したところから「北海道の名付け親」と称されている。 「江戸時代末期に北海道中に足跡を残した探検家です。 安政5年(1858年)3月に阿寒湖畔を訪れており、著書の「久摺日誌」のなかで阿寒の豊かな自然について記しています。 |