啄木と釧路−76日間の足跡(釧路市ウォ−キングマップ・釧路観光協会より抜粋)
歌人・石川啄木は、明治19年(1887年)2月20日、南岩手郡日戸村で生まれ、
明治45年(1913年)4月13日、肺結核により26歳で没する。
1908年(明治41年)1月22日〜4月5日(在籍75日)月給25円 釧路新聞
啄木が釧路にきて100周年ということで 北海道新聞にて特集がくまれました。 その新聞を切り抜いて私の姉が左のように 一冊のファイルとしてまとめてくれました。 (2008、04) 釧路に滞在中に短歌、60首。 小説2作品を残す。 料亭に「進撃」 釧路で酒の味を覚えた若き22歳の啄木、日記にこう記した。酒は弱かったが酒席は好きだった。この冬の釧路の釧路は氷点下30度を超える 啄木の酒は賑やかで必ずだれかを誘って飲み、人に払わせることもしない。 だから借金も膨らんだ。金額は現在のお金に換算すると約、1372万に相当する。短歌に残るのは「悲しい酒」ばかりだ「平成24年7月の道新より引用」 釧路から東京に出ていくために親友・宮崎郁雨が居た 函館に向う。 啄木が乗った船は(当時は)積荷の行き先に合わせて 航行していた不定期舟。 啄木は酒を飲むことと芸者と遊ぶことを覚えた。 新聞広告の出港案内をみて急遽乗船をきめた。 (2008年、4月5日、北海道新聞より) |
明治41年 1・21 |
小樽から汽車に3日かかり、午後9時半、白石義郎釧路新聞社長と共に釧路駅に降りる。 木造の初代・幣舞橋を渡って中心だった橋南地区に向う。 「23歳の正月を北海道小樽の借家で、しかも職を失ってお屠蘇一杯も飲めない」 妻子を小樽においてきた。 「さいはての駅に下り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき」 明治四十一年一月二十二日、午後9時半。現在の釧路市役所付近にあった停車場。 |
1・23 | 洲崎町1丁目関下宿(関サワ)の2階八畳間に移る |
1・28 | 「佐藤国司氏や社長が、三月になったら家族を呼寄せるようにして、社で何処か家を借りてくれると云ふ。 自分も、来て見たら案外釧路が気持がよいから、さうしようと思ふ」 |
2・01 | 小樽の家族へ18円と節子に1円と合わせて19円を送る |
2.07 | 函館時代の同僚、遠藤隆(第三小教員)に会う。銀側時計を質に入れ、5円半を手にして喜望楼で飲む。 |
2・26 | 宮崎郁雨から35円の電報為替を受け取る。佐藤衣川・上杉小南子らと鹿嶋屋へと鶤寅へ。 |
2・29 | 「自分は、釧路に於ける新聞記者として着々何の障礙なしに成功して居る。」 宮崎郁雨からの為替を受け取る |
3・20 | 鶤寅に行く。小奴の身の上話を聞く。 「小奴と いいし女の やわらかき 耳たぼ(耳たぶ)なども 忘れがたかり」 「きしきしと 寒さに踏めば 板軋む 帰りの廊下の 不意の口づけ」 |
3.22 | 米町宝来座で開かれた大風雪羅災者救助の慈善演芸会を取材。 「つくづくと、真につくづくと、釧路がイヤになった。」 |
3・22 | 「何という不愉快な日であらう。」 この日以来啄木は釧路新聞社に出社しなかった。 鎌田は小奴の間に離間策を施される |
3・25 | 「石川啄木の性格と釧路、特に釧路新聞とは一致することが出来ぬ」 釧路を去るべき機会がきたことを感じる |
3・28 | 今日から不平病。白石社長からの電報で釧路を去る決意する。 |
3・29 | 「目をさまして、此頃何日でも寝汗の出てるのが誠に厭な気持。」 |
4・05 | 酒田川丸、積荷の関係で3日遅れで午前7時半抜錨。 仕事や借金をすべてそのままに啄木の76日間の釧路から去る。 下宿代50円、料亭45円、友人らから34円を借金 |
歌碑とブロンズが幸町公園に建立されたのは 共に昭和47年10月14日 港文館前に移設されたのは平成5年5月31日 彫刻製作並撰文 本郷新 歌碑の揮毫は小奴 |
港文館 (入船町) 左の写真 さいはての駅に下り立ち雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき 石川啄木よめる明治四十一年一月二十二日釧路駅で) |
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北の海 鯨追う子等大いなる 流氷来る(くる)をみては喜ぶ (南大通二丁目 |
波もなき二月の湾に 白塗(しらぬり)の 外国船が低く浮かべり (浦見町八丁目) |
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神のごと 遠く姿をあらわせる 阿寒の山の雪のあけぼの 南大通四丁目(釧路信金南支店) 釧路をさる日の船上からみた景色 |
しらじらと氷かがやき千鳥なく 釧路の海の冬の月かな 石川啄木文学碑 (釧路市米町公園) 釧路を訪ねた1908年は特別寒い年だった。 平均気温は氷点下12・2度。 この場所に碑を建てることに決めたのは、当時釧路を訪ねていた 林芙美子の意見を採用した。 |
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葡萄色の古き手提にのこりたる かの会合の時と処かな 潮見町八丁目 画像右の説明 (南大通り3丁目) 明治四十一年一月二十一日石川啄木は妻子をおいて単身釧路に来る 同年四月五日当地を去るまで釧路新聞社に勤め記者として健筆をふるへり あはれ国のはてにて酒のみきかなしみの滓を啜るごとくに 当時の生活感情を啄木はこのようにうたう 当時しゃも寅料亭の名妓小奴を知交情を深めり 小奴といひし女の やはらかき 耳朶なども忘れがたかり 舞へといへば立ちて舞ひにき おのづから 悪酒の酔ひにたふるるまでも |
漂浪の身に小奴の面影は深く啄木の心をとらえ生涯忘れ難き人となれり 小奴もまた啄木の文才を高く評価し後年旅館近江屋の女将となり 七十有余年の生涯を終るまで啄木を慕い通せり 今 此処小奴ゆかりの跡にこの碑を刻み永く二人の追憶の記念とす 昭和四十一年十一月 |
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あはれかの国のはてにて酒のみき かなしみの滓(おり)を啜るごとくに 小奴といひし女のやはらかき 耳朶なども忘れがたかり 舞へといえば立ちて舞ひにきおのづから 悪酒の酔ひにたふるるまでも (南大通り三丁目) |
わが室に(へや)に女泣きしを 小説のなかの事かと 思い出(い)づる日 (南大通四丁目) これは梅川操をよんだ詩。 彼女は啄木の友人がいても平気で常に最後までいた。 |
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春の雨夜の窓ぬらし そぼふれば 君が来るらむ鳥屋(とや)に鳩なく |
顔とこえ それのみ昔に変わらざる友に会ひき 国の果てにて (米町三丁目) |
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花の下たもとほる子は行きずりの 袖の香りに物言わせけり (弥生町二丁目) |
出しぬけの女の笑ひ 身に沁みき 厨に酒の凍る真夜中 (米町一丁目) |
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さらさらと氷の屑が波に鳴る 磯の月夜のゆきかへりかな (米町四丁目) |
のめば悲しみ一時に湧き来るを 寝て夢みぬをうれしとはせし (米町八丁目) |
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一輪の赤き薔薇の花を見て 火の息すなる唇をこそ思へ (弥生町二丁目 本行寺山門脇) 薬局助手をしていた梅川操は造花の赤いバラを 啄木に渡す。 啄木は危険な女だと思って相手にせず。 梅川は啄木よりも早く上京し、釧路新聞記者だった佐藤 衣川と半年の同棲を終えて 釧路に帰ってきて美容院を開く。 三度の結婚、孤独な余生を送り 昭和43年、弟子屈の老人ホームにて82歳で死す。 |
向って左− 山に居て 海の彼方の潮騒を 聞くとしもなく君を思ひね (南大通七丁目) 向って右−三味線の糸のきれしを 火事のごと騒ぐ子ありき 大雪の夜に (南大通八丁目) |
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よりそいて 深夜の雪の中にたつ 女の右手(めて)のあたたかさかな (浦見町八丁目) |
西の空雲間を染めて 赤々と 氷れる海に日は落ちにけり (南大通七丁目) |
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向って左 こほりたるインクの罎を火にかざし
涙ながれぬともしびの下 (大町5丁目 啄木下宿跡) 向って右 火をしたふ虫のこ゜とくにともしびの 明るき家にかよひ慣れにき (浦見町八丁目) しゃも寅跡 「火をしたふ虫」のように明るくにぎやかな料亭に通う。 しゃも寅は高級料亭だった。 |
旧釧路停車場跡】歌碑 ながくも声をふるはせて うたふがごとき旅なりしかな |
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さいはての駅に下(お)り立ち 雪あかり さびしき町にあゆみ入りにき 啄木夢公園 |
あはれかの国のはてにて酒のみき かなしみの滓を啜るごとくに (南大通八丁目 喜望楼跡) |
○釧路新聞社では編集長格になり、才能をふるうことができた。料亭「しゃも寅」で17歳の子奴と知り合う。
小奴こと近江ジンは、明治23年函館に生まれ。気立ても芸もよく、顔立ちも美しい。
釧路花柳界の花形であった。17才の時、啄木と会う。知人浜の海岸。
小奴は単身赴任で釧路に移りすんでいた逸見豊之助の愛人であった。
その後、子奴は母がいた南大通にあった「近江屋旅館」の女将として活躍。
1965年東京の老人ホームで75歳で亡くなる。
○東京の文壇では夏目漱石や島崎藤村らの活躍に
「自分はこんなところにいる人間ではない」と宮崎都雨に大金を用意させ、11ヶ月の北海道の生活に終止符