北海道の文学碑

私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります北海道の文学碑のトップに戻ります

海峡のまち  函館

地名の由来
室町時代の享徳3年(1454年),津軽の豪族 河野政通が
宇須岸(ウスケシ、アイヌ語で湾の端の意)と呼ばれていた漁村に館を築き,
この館が箱に似ているところから「箱館」と呼ばれることになりました。

明治2年(1869年),蝦夷が北海道となり,箱館も函館と改められました。
明治18年、幸田露伴は18歳で余市電信局に身をおき、明治20年に帰京。明治28年には国木田独歩がくる
37年、島崎藤村は「破戒」の自費出版の資金調達のために函館の妻の実父・秦慶治を訪ねたのは7月27日であった。
明治36年・徳富蘆花・明治長田幹彦が上陸している。
大正12年8月2度目だが宮沢賢治は津軽海峡を渡ってくる。九条武子は4回来道。

石川啄木と函館は別にまとめてあります。こちらです

砂山影二文学碑
わがいのちこの海峡の浪の間に
消ゆる日を思ふ−岬におちて 砂山影二文学碑
明治35年3月函館市生まれ 大正10年5月歿
啄木に心酔傾倒した文学青年であった。
20歳のとき連絡船から投身自殺をする。

立待岬

函館山の南東端に位置し、
北に函館市街と大森浜の海岸線、
南に津軽海峡、
遠くに下北・津軽両半島が望める絶景のスポットです。
立待岬
宮崎郁雨文学碑
蹣跚(まんさく)と夜道をたどる淋しさよ 
      酒はひとりし飲むものならず

宮崎郁雨文学碑

函館市住吉町 立待岬 石川啄木墓碑隣
昭和43年4月7日  建立 
明治18年新潟県生まれ 昭和37年3月 没
家業は味噌醸造業、啄木の親友であるとともに妻節子の妹ふき子と結婚。啄木一族の墓を建てたのも郁雨や岡田健蔵らであった。物心両面の援助を尽くした
与謝野寛・晶子文学碑

浜菊を郁雨が引きて根に添ふる
立待岬の岩かげの土    寛

啄木の草稿岡田先生の
顔も忘れじはこだてのこと  晶子
与謝野寛・晶子文学碑 (函館市住吉町 立待岬) 
歌の中の人物は
宮崎郁雨・石川啄木・岡田健蔵(啄木文庫)の創設者
中村舟路文学碑
海峡や波音ちかく朧月

中村舟路(なかむらしゅうじ)文学碑
函館山

立待岬からみる函館山
亀井勝一郎文学碑
亀井勝一郎
「函館の町を中心にこの二つの修道院をつなぐ半径内が、幼少時代の私の散歩区域であった」(函館八景より)
評論家・亀井勝一郎は、明治40年(1907年)、函館貯蓄銀行の支配人であった父喜一郎の長男として生まれます。小学校の時から英語の個人教授を受けていました。
亀井勝一郎
明治15年東京帝国大学に入学。
大学を中退。そして治安維持法違反容疑で検挙され、収監されます。釈放後は、プロレタリア文学評論家として活動。

「人生 邂逅し(かいこう) 開眼し 瞑目す」
亀井勝一郎文学碑
心ある人々によって立てられたと説明文に書かれている。
昭和44年10月14日建立
柳町23番地
市電宝来町下車
亀井勝一郎生誕の地碑は函館市元町16
ハリストス正教会の坂下にあり、著者の生家付近を描写した「東海の小島の思い出」の一節を碑にきざんである。
西条八十文学碑
 
 
眠れる君に捧ぐべき  矢車草の花もなく
 ひとり佇む五月寒  立待岬の波静か 
 おもひでの砂ただひかる  
             捧啄木 西条八十  

昭和34年10月23日建立
直筆
西条 八十(1892年1月15日 - 1970年8月12日)は日本の詩人、仏文学者である。本名。
東京都出身。早稲田大学文学部英文科卒業。後にフランスへ留学し、帰国後早大仏文学科教授。
両親は、苦しいことがないようにと、「苦」に通じる「九」を抜いた「八」と「十」を用いて命名した。
戦後は著作権協会会長を務めた。薄幸の童謡詩人金子みすゞを最初に見出した人でもある。
西条八十文学碑
大森浜 啄木小公園
立待岬の啄木墓碑に捧げた詩

西条八十文学碑
新島襄
「新島襄海外渡航乗船之処」碑 
男児決志馳千里 自嘗辛苦豈思家
却笑春風吹夜雨 枕頭尚夢故園花

「男児志を決して千里を馳す自ら辛苦を嘗めて豈に家を思わんや却って笑う春風雨を吹くの夜 枕頭尚夢む故国の花」
新島襄の碑 (函館市大町)
新島 襄(天保14年1月14日(1843年2月12日) - 1890年(明治23年)1月23日)は、キリスト教の布教家で、同志社大学の前身となる同志社英学校の創立者である。福澤諭吉らとならび、明治六大教育家の1人に数えられている。

江戸の神田で藩士の子として生まれる。本名を七五三太(しめた)と言う。この名前は、祖父弁治が女子が4人続いた後の初の男子誕生に喜び「しめた」と言った事から命名されたという説がある。元服後、安中藩士となるが、元治元年(1864年)21歳のとき、国禁を犯してのアメリカ合衆国への渡航を画策する。渡航に向け函館に潜伏中、当時ロシア領事館付の司祭だったニコライ・カサートキンと会う。ニコライは新島から日本語と日本の書物などの手ほどきを受け、また聖書に興味を持つ新島に自分の弟子になるよう勧めたが、新島のアメリカ行きの意思は変わらず、カサートキンはそれに折れ新島の密航に協力した。
船中で船長ホレイス・S・テイラーに「Joe(ジョー)」と呼ばれていたことから以後その名を使い始め、後年の帰国後は「譲」、「襄」と名乗った
ウィキペディアより引用
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6%E8%A5%84
酒は涙かため息か
高橋掬太郎の碑
酒は涙か溜息か
心のうさの捨てどころ


「酒は涙か」音楽碑
(作詞 高橋掬太郎 古賀政男作曲・藤山一郎唄)
昭和36年9月12日建立
函館市住吉町 護国神社の坂の下
このへん一帯は往年の繁華街。函館日日新聞も近くにあった。
高橋 掬太郎(たかはし きくたろう、1901年(明治34年)4月25日 - 1970年(昭和45年)4月9日)は昭和期の作詞家。
北海道根室市出身。1901年(明治34年)4月25日、北海道の国後島で漁師の息子として生を受ける。

1922年(大正11年)、函館日日新聞に入社し、社会部長兼学芸部長として活躍するかたわら、詩や小説、脚本などを手がけた。自身が投稿した、「酒は涙か溜息か」で作詞家デビュー。この歌は函館の花街で贔屓にしていた千成という美しい芸者が、愛人と別れて芸者をやめることになった。送別の席で千成に与えた。その後も、昭和の名曲を数多く手がけた。

1968年(昭和48年)、紫綬褒章受章。

1970年(昭和45年)腎臓手術中に肺炎を併発し4月9日死去。享年68。


北海道坂本龍馬記念館

函館市末広町
市電停留場「十字街」

今から140年程前に、近代日本の夜明けと言われる大改革「明治維新」が起こりました。この原動力の中心人物、坂本龍馬は、あたかもこの改革のために生れて来たのではないかと思われます。わずか5年の間に世界にも例がない無血革命をほぼ成し遂げ、33歳の若さで逝ったのでした。

当初、記念館は札幌に開設する計画だった。しかし、函館には幕末・明治維新の歴史的な土壌があり、龍馬の親族の澤辺琢磨、後に龍馬の跡目を継いだおいの高松太郎(坂本直)らが暮らしたことなどから、開設地を変更した。(直は函館裁判所の役人として赴任。)直の弟。坂本直寛が龍馬の意志をついて一家で北海道に移住。今も子孫が北海道で暮らしています。
http://www.ryoma1115.com/kinenkan/index.html
より引用しました。

2009年11月15日建立
北海道坂本龍馬記念館
北海道にあこがれた龍馬
失職した武士たちを開拓と
防衛にあてようと考えていたらしい。

右の画像の説明
像の脇に設置された石には「天明」の二字とともに
「一人の力で天下うごかすべきは、是又天よりすることなり」
「世の人は己をなにとも ゆはばいへ
己がなすことは己れのみぞしる」


函館市末広町
市電停留場「十字街」


蝦夷地の坂本龍馬像」2010年11月、建立
北斗船 音楽碑 
 
 みぞれまじりの しぶきを頭から
 浴びて乗り出す 噴火湾
 海は荒れても 行かねばならぬ
 今年六十の お袋さんに
 ハワイ旅行がさせたくて


作詞 星野哲郎 作曲 船村 徹
鳥羽一郎 歌う
(鹿部町 しかべ間歇泉公園前)

しかべ間歇泉公園は15メートルもふきあげる間歇泉が
有名。音楽が流れるようになっている
北斗船音楽碑
北斗船 音楽碑

私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります北海道の文学碑のトップに戻ります