1886年(明治19年)2月20日 石川啄木と函館 1907年 明治40年5月5日 満21歳 |
潮かをる北の浜辺の 砂山のかの浜薔薇よ今年も咲けるや 大森浜 啄木小公園 東京・函館ー啄木家のその後 明治45年4月13日 午前9時30分、死去。死因は、肺結核 最後をみとった者は、妻節子(妊娠8カ月)の他、父一禎と友人の若山牧水とであった 金田一京助もいたが出かけた後だった。 享年26歳1カ月。 9月4日 節子は、京子・房江の二人の遺児を連れて、当時は函館に移住していた実家に帰り、 借家生活(青柳町32番地)を始めたが、翌年の1913年(大正2年)5月5日、肺結核。 享年26歳6カ月。 |
立待岬へとつづく坂道の両側にある共同墓地。 その海側の一角にあるのが、石川啄木一族の墓地。 わずか1年の北海道漂白でしかなかったのに、 啄木の歌碑は広く解釈して40基。 全国では150基を超えるが、故郷岩手の約80基に次いで多い。 21歳の啄木が「石をもて追わるる如く」渋民村をあとに 「新運命を北海の岸に開拓せん」との決意を抱いて 函館の人となった「死ぬときは函館に・・・」の遺言に従って、 友人宮崎郁雨によって大正2年6月、浅草からこの地に移されました。生前は一家離散の憂き目をみたが 「家族を離れたくないのだ」と語った啄木。 啄木書簡之一節 これは嘘いつはりもなく正直尓言ふのだ、 「大丈夫だ、よし〜、 おれは死ぬ時は函館へ行って死ぬ」 その時斯う思ったよ、何処で死 ぬかは元より解った事でないが、僕は矢張死ぬ 時は函館で死にたいやうに思ふ 君、僕はどうしても僕の思想が時代より一歩進ん でゐるといふ自惚を此頃捨てる事が出来ない 明治四十三年十二月二十一日 東京市北郷弓町二の十八 石川啄木 郁雨兄 |
「東海の小島の磯の白浜に われ泣きぬれて 蟹とたわむる」(これは自筆) 樺太の北緯50度に建った日露境界線の形を模している。 宮崎郁雨は「函館の砂」の中で「蟹とは彼が泣きながら取り組んでいた彼の個性であり、自我であり、文学であった。その蟹は本物の蟹と同じで彼の人生行路では横ばいし続けていた。」と評している。 宮崎郁雨により大正15年8月1日に建立 |
現在の弥生小学校ではなく古い校舎の弥生小学校 旧アメリカ領事館跡 啄木が勤めていた学校と同じかどうかは確かではない。 |
石川啄木居住地跡 (青柳町現在15番5号) |
一握の砂 砂山の砂に腹這ひ初恋の/いたみを遠く思ひ出づる日 石川啄木文学碑 啄木公園隣接 「啄木浪漫館」 |
函館日日新聞跡地(末広町23番21号) |
函館の青柳町こそかなしけれ・友の恋歌・矢車の花 ライオンズクラブの説明によると「全国に点在する歌詞の中でも 一番素晴らしい。 自筆を拡大したもの。 石川啄木の歌碑 薄幸の詩人、石川啄木が函館に逗留した/のは、明治四十年五月から九月にかけての/僅か百三十二日間にすぎない。 この間、文/芸同人苜蓿社の盟友に囲まれ、文学を論じ、/人生を語り心安らぎつつも、自らの若さと/夢を思い悲しんだ。 この歌碑は、青春のあしあと、啄木の青/柳町時代を記念して建立された。 函館巴ライオンズクラブ |