私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります戦国の女たち、はじめに戻ります


 

織田信長と女たち

「人間50年、下天の内を比ぶれば 夢幻のごとくなり
 ひとたび生を得て 滅せぬ者のあるべきか」

「敦盛」の一説である


下天とは、六天の中でももっとも下層の天のことで
四天王のこと。
人間の50年というものは、四天王にすればわずか
一日に過ぎない。

信包は信行?信長は12人の兄弟がいた。

 名 前        どんな女(人)だったか?
土田御前(どた) 信長の母。信長は癇癪の強い子で乳母の乳をかむので何人も乳母が変わる。青年になっても腰に巻いた荒縄に刀をさし、髪をきちんと結ってなかったり、また父親の葬儀には抹香を仏壇に投げたりする姿が嫌いだった。土田御前はおとなしい次男を愛した。だがその次男の信行は信長に挑んでは負ける。なお信長を殺そうとするので母に重い病気になったと嘘の手紙を書いておびきよせて信行を殺す。その後、母を引き取って安土城に住む。土田御前の故郷は岐阜県の可児市土田。ここは要所だったことから信長の祖父は土田を妻とする。
 濃  姫 信長の正室で斉藤道三の娘の濃姫は長生きだったとも言われているが、その事実は分からない。
吉乃(きつの) 土田御前の甥、土田弥平次に嫁ぐが、戦死した。吉乃は信長の母である土田御前と姻戚関係にあって馬借をなりわいとする生駒家宗の娘であった。信長は濃姫を正室に迎えたが、吉乃の件は隠され、信忠、信雄、徳姫の出産も生駒屋敷から離れた場所でする。信長は吉乃の優しさに心を解き放ち、若き日の信長にとってはかけがえのない女であった。吉乃は3人の子供を産んでからすっかり体調をこわした。信長は医者をつけ、薬湯の値段に糸目をつけなかったが小牧山城にて死亡。信長33歳。
 お  鍋 安土城にあって晩年の信長の奥を取り仕切った。息子2人と娘1人を産んだ。お鍋は小倉賢治の死によって後、信長の妻になった。夫の小倉は、観音寺城の佐々木六角に凶作は嘘だと年貢の支払いを迫り、従わなかったために戦いになる。
 養 徳 院 岐阜県池田町の出で跡取りがいなかった為に滝川恒利を婿にして22歳で信輝を産む。信長は3歳になっていたが、乳母に。その2年後夫が亡くなる。信長の父の信秀は信輝が10歳になると信長の遊び相手にと召しだした。だが短気で13歳の時に仲間を切り、信長の怒りをかって身を隠したが、織田広信との戦いでは信輝は敵の首をとった。養徳院は我息子に信長の腹心になって欲しいとそれだけを祈った。
 信 輝の妻 信長の弟、信行を殺した後、信行の正室を略奪、幼い一人息子の坊丸を土田御前に預けて実家に帰るところを信輝に襲われて清洲城に連行された。信長の勧めもあって嫁にする。信輝の妻は最初は憎んだ夫であるがその優しさにうたれる。彼女はその後之助、輝政、長吉、長政と池田家の未来をつぐもの息子を産む。そして犬山城をもらって養徳院と住む。その後、信長亡き後、「小牧長久手の戦い」で信輝死す。秀吉は21歳の輝政に家督をつがせる。

信長の娘は10人いたと言われています。

 名  前       どんな女(人)だったか?
 徳  姫 長女徳姫は徳川家に嫁ぎ、姑の築山殿と折り合いが悪く、父信長にその罪を訴えて、夫の信康と築山殿を死においやった。
 冬  姫 蒲生氏郷との結婚は幸せだったが、夫だけではなく、息子、また孫の早い死で、
跡取りがなく、蒲生家の滅亡を生きて見た。
 秀  姫 筒井順慶の嫡子・定次に嫁ぐが、家族でキリストを信じ、棄教を拒否して所領を没収され、夫と息子が切腹
 鶴  姫 中川秀正に嫁いだが、夫は朝鮮出兵で戦死し、子供もなく、織田家に帰される。
 永  姫 前田家で恵まれた人生を送る。信長自身が嫁ぎ先を選んだ最後の娘だった。永は9歳で20歳の利長に嫁ぐ。子供ができないことで悩んだ。異母兄弟の利常に利長は44歳で家督を譲り、高岡城に住む。