私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります北海道の文学碑のトップに戻ります

北海道の文学碑

積丹半島 余市から神威岬・岩内・寿都まで
国道229号線をゆく。 余市・古平・積丹岬・西積丹・岩内・寿都

北海道の西側、日本海に突き出る積丹半島。余市町は、その内側の付け根に位置しています。
国道5号線、国道229号線が通り、小樽・札幌方面、倶知安・岩内・函館方面、積丹方面の、中心に位置し、
3方向への 交通の要衝となっています。
日本海に突出た積丹半島は昔から海の難所といわれた、宝の宝庫である。和人がニシンを追って北上し、
まず岩内が拠点となり、難所をかわして余市が基点となった。
町名の「余市」はアイヌ語の「イヨテイーン」が語源だとされています。
ヘビのように曲がりくねった大きな川のある所の意味だとされています。
また、古くからニシンの漁場として栄え、その繁栄ぶりは現在文化財として保存・公開されている運上屋、福原漁場から偲ぶことができます

吉田 一穂(よしだ いっすい)文学碑
白鳥古丹

吉田 一穂(よしだ いっすい)文学碑

古平町浜町 古平文化会館


吉田 一穂(よしだ いっすい、1898年8月15日 - 1975年3月2日)は、大正・昭和期の詩人、評論家、童話作家。本名、由雄。北海道上磯郡木古内町字釜谷村の漁師の家に生まれる。1905年、後志国古平町に移り少年期を過ごす。16歳の時、北海中学校を上級生投打事件で退学し、東京の海城中学に入学。1918年(20歳)、早稲田大学高等予科文科入学。このころから「一穂」を名乗る。実家の火災により学資が途絶え、1920年に早稲田大学を退学。以後、詩人・童話作家として生涯を送る。1973年、東京にて74歳で永眠。
吉田 一穂(よしだ いっすい)文学碑
少年期を過ごした古平を「白鳥古丹」と呼んでこよなく愛したことなどでも知られるように、一穂の詩の原点は「北海道」にあり「極北の詩人」とも呼ばれる。

一穂が靖国神社に捧げた鎮魂歌碑、詩集『海の聖母』の「自ら白鳥古丹と呼んでいる古平」は「北日本海の怒涛と吹雪の中から荒涼たる積丹半島」は私の精神の源泉の地だ。
幸田露伴文学碑
 
塩鮭(からざけ)のあ幾(ぎ)と風ふく寒さかな
幸田露伴文学碑
道立水産試験場前庭
 昭和30年8月建立
幸田露伴

露伴自身は余市時代のことを書きも語りもしていない。
娘の幸田文が始めて余市を訪れたのは句碑が建った
5年後の昭和35年のことである。
「雪粉々」は余市の生活なくして書けない作品である。

幸田露伴、本名幸田成行は慶応3年7月当時の江戸下谷に生まれた。徳川家に仕えていた幸田家は明治の世になり、生活は苦しかったので東京電信修技学校に入る。明治17年東京電信修技学校を修了した露伴は1年間の実習を終えて、翌18年7月判任官逓信省十等技手として余市電信分局勤務を命ぜられる。
しかし着物を売却したりして明治20年8月25日、余市を出奔します。
「身には疾あり、胸には愁いあり・・」で始まる「突貫紀行」ので始めである。しかし旅費は乏しく
青森から郡山までは徒歩で、二本松から郡山に至る途中、疲労困憊して身を投げ出した時得た句が「里遠しいざ露と寝ん草まくら」で苦しい旅の思いがこめられています。
「露伴」の号はこの句によるものとされている。
帰京後本格的に執筆を開始した露伴は、尾崎紅葉・坪内逍遥、森鴎外と並んで「紅露逍鴎」と称されて一時代を画し昭和22年に没するまで息の永い文筆活動を続けた。代表作に「五重塔」「運命」「幻談」などがある
余市町
違星北斗文学碑
春浅き鰊の浦や雪五尺
違星北斗文学碑
薄幸歌人違星北斗( いぼしほくと)は明治35年に
余市町大川町で生まれる。
違星の姓はエカシシロク(違い星)に由来してるという。

日高の平取で保育園勤務 薬行商などをする
アイヌ民族の差別にはげしい怒りをなげながら「吾アイヌ也」と
 自覚して生きようと願いつつ、28歳の若さで没す。

滅び行くアイヌの為にたつアイヌ違星北斗の瞳輝く。

亦今年不漁だったら大変だ余市のアイヌいられなくなる。

滅亡に瀕する(ひんする)アイヌ民族にせめては生きよ俺のこの歌
            (コタンより)

余市町入舟町 水産博物館
和田徹三文学碑

   
和田徹三文学碑

ー古里の海に寄せてー

 このどす黒い冬の海のどこかに夏の色が 
 かくれているはずがない。

 さまざまなものを ただ映しているだけで海にじぶんの色な ど あろうはずがない。
 人はいつからか己にあわせて心を切りとってきた。

 しかし 海には「私」というものがない。
 それは ただはてしなく広い人の心の原型のように・・・

昭和63年10月13日建立
余市町入船町 余市水産博物館前
石川啄木文学碑

石川啄木の碑。
石川啄木の短歌ではないことが判明したが撤去していない。
野口有情文学碑 野口雨情文学碑
海は紫空青々と朝日かがやく茂入山

昭和43年七月建立。
大正15年6月に情操教育のため道内を行脚し、余市に
立ち寄ったときにしたためた。

余市町入舟町 水産博物館
野口 雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は詩人、童謡・民謡作詞家。本名は野口英吉。茨城県多賀郡磯原村(現・北茨城市)出身。
野口雨情の生家(北茨城市磯原町)
(2006年6月撮影)廻船問屋を営む名家の長男として生まれる。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、坪内逍遥に学ぶが、1年余りで中退、詩作を始める。
北原白秋、西条八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた。
他方童謡とともに盛んとなった「新民謡」(創作民謡)にも力を注ぎ、1935年(昭和10年)には日本民謡協会を再興し、理事長に就任している。日本各地を旅行し、その地の民謡を創作した

1943年(昭和18年)軽い脳出血で倒れて後は療養に専念。1945年(昭和20年)疎開先の宇都宮市近郊で死去。

代表作は『七つの子』『赤い靴』『青い目の人形』『しゃぼん玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など他に『波浮の港』『船頭小唄』など。
岩内−水上勉「飢餓海峡」・八木義徳「漁夫画家」
雷電海岸は岩内が誇る景勝地だが、雷電峠は昔、北海道三嶮の一つでいわれるほどの難所であった。
「江差追分」に「忍路高島 及びもないが せめて歌棄 磯谷まで」と歌われた古い漁場を通って寿都に入る
岩内町
夏目漱石
夏目漱石在籍地碑
夏目 漱石(なつめ そうせき、1867年2月9日(旧暦1月5日) - 1916年12月9日)は、江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。本名は金之助、俳号は愚陀仏。夏目家の五男に生まれた。没落していく夏目家と兄たちの放蕩。漱石は幼少時、養子に出されており、兄達の官能に遊ぶ姿に共感せずに勉学に励んだ。大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。東京帝国大学英文科卒業後、松山中学などの教師を務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝国大学講師の後、「吾輩は猫である」を『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを『朝日新聞』に掲載。当初は余裕派と呼ばれた。修善寺の大患後は、「行人」「こころ」などを執筆。「則天去私」の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。
目漱石は本当は岩内にきていないのに戦争から逃れるためにここ岩内に住所を変更したと云われています。明治25年に東京の夏目家から分家し、岩内郡吹上町浅岡仁三郎方同居として「戸主夏目金之助」の戸籍が作られている。
漱石は慶応三年の生まれだからときに25歳。
戸籍には妻の他7人の子が名をつらねている。
実に22年もの間、年齢でいえば47歳まで戸籍はこの岩内にあったことになる。浅岡家は、三井物産で経営する岩雄登硫黄山に物資をおろす御用商人だった。岩内の硫黄鉱山は当時・大変な活況を呈していたことから、三井の知人に頼んだのだろう考えられるが、その事実は分からない。
「余は東京の場末に生まれたものであるが、妙な関係から久しい以前に籍を北海道に移したきり、今に至って依存として後志圏の平民になっている。原籍のあるところを知らないのも変だと思って、機会があったら一度海を越えて北の方に渡ってみたい積りでいたが実行の決意は容易にできず来る年来る年をただ暮らしてしまった」
明治25年4月5日。文豪夏目漱石本籍を東京牛込より此処吹上町浅岡仁三郎方に移す。25歳から47歳まで22年間、その半生をここに本籍をおいたゆかりの地である。昭和44年3月建立 岩内町」
沙良峰夫文学碑
沙良峰夫文学碑
白い霧の中に 船はかくれて行った さびしい小鳥の様に仄暗い沖のかなた とおい北の冷たい夢のなんて目に沁みることだ  
昭和41年6月22日建立
岩内町 雷電温泉 ホテル雷電の庭
沙羅峰雄ー明治34年3月11日、岩内町生まれ
刀掛けの岬
刀掛の岬(かたながけのみさき)

雷電温泉郷の象徴。弁慶が義経に従って北上し、この峠で一休みした際、弁慶のさしていた刀があまりに大きく、置くことができなかったため、怪力の弁慶がやにわにあたりの岩をひねって
岩の刀掛をつくり、
その大きな刀を掛けて休んだとの伝説をもつ
島義勇記念碑
島義勇文学碑

行盡一山還一山/風寒日暮尚躋攀/隔渓忽聞豺狼吠峰上蕭然月一彎/渓雲蔵月暗前程/脚下亦聴怒水声
忽喜人携樺皮到/炬光千點照吾行
仁木町 国道5号線稲穂トンネル・岩内方面に向かって右
義経船行き場所
(義経船行き場所・ここからモンゴルに
渡ったと言われています)
物すさまじい朝焼けだ。
過って海に落ち込んだ悪魔が、肉付きのいい右の肩だけを波の上に現はしてゐる。
その肩のような雷電峠の絶顛を 撫でたり敲いたりして
叢たち急ぐ嵐雲は、炉に投げ入れられた 紫のやうな光に燃えて、山懐ろの雪までも透明な藤色に染めてしまふ 
それにしても 明け方のこの暖かい光の色に比べて、何んと云う寒い空の風だ。
長い夜の為めに 冷え切った地球は 今その 
一番冷たい呼吸を呼吸をしてゐるのだ。     
    「生まれ出づる悩みから」

有島武郎文学碑  岩内町ホテル雷電前の海側
昭和37年9月25日建立

大正七年、有島武郎の小説「生まれ出づる悩み」は、岩内で苦悩しながら創作活動を続ける画家・木田金次郎をモデルにしています。木田金次郎た岩内町有志の手で建立。
有島武郎文学碑
(表面ではなく斜め横から写真を撮ると句が出てくるらしいです)

私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります北海道の文学碑のトップに戻ります