私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります北海道の文学碑のトップに戻ります

北海道の文学碑

道北 国道40号線をゆく  塩狩峠 中川町 士別 名寄 稚内
    オロロンライン  天塩 初山別 小平 留萌 

旧三浦綾子自宅
旧三浦綾子自宅ー現在は資料館
小説 塩狩峠
塩狩峠(北海道和寒町)は天塩と石狩の国境にある。
明治四十二年二月二十八日の夜、急坂を登りつめた列車の
最後尾の連結器が外れ、客車が後退をはじめた。
偶然、乗り合わせていた鉄道職員・長野政雄がとっさの判断で、
線路に身を投げ出し自分の体で客車をとめた。

みうら・あやこ 1922ー1999、旭川市生れ。
小学校教員を敗戦後に退職。
肺結核と脊髄カリエスを併発、闘病生活。
64年に「氷点」で文壇に。「天北原野」「道ありき」など
塩狩峠
塩狩峠
塩狩峠
士別市
徳富蘆花文学碑 泥炭地耕すべくもあらぬとふ 
さはれ美し虎杖の秋
徳富蘆花文学碑
 (士別市東2条7丁目)2006・05・03撮影雪の中だった)
「明治43年9月北海道旅行の途次車窓から眺めた
士別の情景広漠たる泥炭地の中に黄葉した虎杖(いたどり)
の美しさを詠んだ」
名寄市
田中長三郎文学碑 さみどりに若葉もよほす山見れば 
          花咲く木には花咲きにけり

田中長三郎文学碑 
名寄市 名寄公園  
野口雨情文学碑   名寄公園 照る日の光り
緑もえ立つ 原始林   
野口雨情文学碑
 (名寄市名寄公園) 
昭和15年、野口雨情が来市し、また「名寄小唄」の作詞した縁で
開基90年を記念して建立された。
野口 雨情(のぐち うじょう、1882年(明治15年)5月29日 - 1945年(昭和20年)1月27日)は詩人、童謡・民謡作詞家。本名は野口英吉。茨城県多賀郡磯原村(現・北茨城市)出身。
野口雨情の生家(北茨城市磯原町)
(2006年6月撮影)廻船問屋を営む名家の長男として生まれる。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学し、坪内逍遥に学ぶが、1年余りで中退、詩作を始める。
1943年(昭和18年)軽い脳出血で倒れて後は療養に専念。1945年(昭和20年)疎開先の宇都宮市近郊で死去。

代表作は『七つの子』『赤い靴』『青い目の人形』『しゃぼん玉』『こがね虫』『あの町この町』『雨降りお月さん』『証城寺の狸囃子』など他に『波浮の港』『船頭小唄』など。
天塩川 塩川
流域の上流部には天塩岳道立自然公園、下流部には利尻礼文サロベツ国立公園が広がっている。北海道遺産にも選ばれています。
稚内市
宗谷岬音楽碑
♪ 流氷とけて 春風ふいて
ハマナス咲いて かもめも啼いて
はるか沖行く 外国船の
煙もうれし 宗谷の岬    以下略
稚内市 宗谷岬音楽碑
(作詞吉田弘  作曲 船村徹 直筆 ダ・カーポ)
ダ・カーポ、ボニージャックス、千葉紘子、芹 洋子さんなどの
歌手によりレコード化され、 
この音楽碑は、黒見影石に“宗谷岬”の歌詞と楽譜を刻んだもので、昭和55年(1980)11月に建立されました。
宮沢賢治文学碑
はだれに暗く緑する 宗谷岬の たゝずみと 北はま蒼に
うち睡る サガレン島の東尾や(宗谷(二))の二連目
宮沢賢治文学碑 (稚内市 宗谷岬公園)
昭和61年12月12日建立。岩手県の花巻に生まれ、25歳で農業高校の先生になる。化学の知識を応用した農業を奨め、貧しい農民の暮らしを自ら実践する。昭和8年37歳で死去。
24歳で妹の「トシ」が肺結核のために亡くなった。
大正12年8月、賢治が稚内より連絡船の客となり、大泊に至る間に作詞したものといわれています。教え子の就職の斡旋という名目だったが。前年11月最愛の妹トシを失い「永訣の朝」、「無声慟哭」を書き、七ヶ月の沈黙のあと、彼は北へ向って旅に出る。
北海道から樺太に渡り、帰ってきたとき
彼は「すべてのいきものの、本当の幸せを探す」と自覚した。
「おらあど死んでもいいはんて
あの林の中に行ぐだい
動いて熱は高ぐなっても
あの林のなかでだらほんとに死んでもいいはんて」
森繁久弥文学碑
浜茄子の咲きみだれたるサロベツの
砂丘の涯の海に立つ富士
森繁久弥(もりしげひさや )文学碑

稚内市浜勇知・こおほねの家 
森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - )は、日本の俳優。大阪府枚方市出身。旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)、早稲田第一高等学院(現・早稲田大学高等学院)卒業後、早稲田大学商学部中退。舞台俳優、NHKアナウンサーを経て本格的な俳優活動に入る。
天塩町
松浦武四郎文学碑 蝦夷人のみそぎなしける天塩川
今宵ぞ夏のとまりをばしる
ながむれば渚ましろに成にけり
てしほの浜の雪の夕暮れ
松浦武四郎文学碑
(天塩町 天塩川鏡沼海浜公園)
松浦武四郎は、蝦夷地の探検をはじめ、日本の深山の探査や和歌、漢詩、絵画など多方面にわたって、多芸多才ぶりを発揮。
文政元年(1818)、伊勢国須川村(松阪市(旧三雲町小野江))に地士の4男として生まれる。28才の年初めて蝦夷地へ渡り、38才のとき蝦夷地御用御雇い入れの命を受け、幕府の役人として更に蝦夷地の調査を行い「東西蝦夷山川地理取調図」28冊などを刊行する。維新後は蝦夷地開拓御用掛、更に開拓判官となり北海道名、国名、郡名の選定にあたり、北海道命名者として従五位開拓判官に任命され不朽の名誉を残した。
松浦武四郎像
松浦武四郎像
松浦武四郎
名にも似ずすがたやさしき女郎花
なまめき立てるおにしかの里

「北海道の名付け親 松浦武四郎は、身長4尺8寸(145cm)
足の大きさ24cmと小柄ながら、その旺盛な精力と知識欲に
より未開の荒野を踏査・探検し、当地へも4度訪れ、鰊漁場
の賑わいをきわめた往時の鬼鹿の歴史を詩に残している。」
美深町
下村湖人
下村湖人文学碑
大いなる道というもの世にあるを
思ふこころはいまだも消えず
(美深町 びふか温泉)
 「次郎物語」は教育者であった下村湖人の自伝的小説で、東大の学生時代に書いた「生い立ちの記」が元になっている。主人公、次郎が出生と同時に里子に出され、その後4歳で実家に帰るが、8歳の時母親が亡くなり、満たされぬ母の愛情への渇望から反抗を繰り返しながら、父や里親、小学校の教師の導きにより中学校に進むまで成長する。中学時代に出会った朝倉先生のすぐれた人格に深く傾倒した次郎は、さらに、友人、先輩との交友を通じて次第に人生と社会に目覚めてゆく。(1884生1955没)
副碑に「次郎物語の著者下村湖人先生は、昭和12年当地を訪れて雄大な風景を激賞した。この歌は亡くなる前年(昭和29年70歳)に詠まれたもので絶筆といわれている」
松浦武四郎
松浦武四郎文学碑 


ゑみしらは筍(け)にもる飯も古の
さまをつたへて葉椀にぞもる
かきならす五の緒ごと音さえて
千々の思いをわれも曳きけり
(美深町 びふか温泉前)
留萌市
若者たち
「若者たち」音楽碑(留萌市黄金岬)
藤田敏雄作詞・佐藤勝作曲
♪ 若者たち
(1) 君の行く道は 果てしなく遠い
  だのになぜ 歯をくいしばり
  君は行くのか そんなにしてまで
(2) 君のあの人は 今はもういない
  だのになぜ 何をさがして
  君は行くのか あてもないのに
3) 君の行く道は 希望へと続く
  空にまた 日が昇るとき
  若者はまた 歩き始める

  空にまた 日が昇るとき
  若者はまた 歩き始める
中川町
青々とおどろくばかり太き蕗が  
澤をうづめて生ひしげりたる
斎藤茂吉文学碑 (中川町 見晴公園展望台)
斎藤茂吉文学碑
斎藤茂吉文学碑の案内ー
茂吉より六歳年上の次兄 守谷富太郎は、昭和3年12月から中川村志文内(現中川町共和)の志文内診療所につとめていました。
茂吉は昭和7年(1932)8月14日、弟の高橋四郎兵衛をつれて
中川村の兄の元を訪ね、5日間滞在しました。兄富太郎とは実に17年ぶりの再会でした。斎藤茂吉は、明治15年(1885)7月27日山形県で守谷熊次郎の三男として生まれ、14歳の時に斎藤紀一を頼って上京、医学の道に進み、後に紀一の婿養子となって斎藤病院の後継者となりました。教科書にも多くの歌が取り上げられているように、現在もその歌は広く読み継がれています。(今度尋ねていけるまで勝手に中川町HPより画像を借りました)

雪の中で通行止めでした。
斎藤茂吉文学碑斎藤茂吉文学碑
さ夜なかと夜は過ぎつつ志文内の
山のうへ照らす月のかげの清けさ


斎藤茂吉文学碑(中川町 共和 ( 志文内 )  茂吉小公園 
元診療所跡

宮沢賢治
幼少時代 質屋という陰険な商売や、次々病人が絶えなかったことから、いつともなく人の世の悲しみと
いうものが身にしみていた。
農林学校時代 姉のトシが肺をやみ、家に帰ってきてから、大正7年いらい続けていた菜食と寒行をしながら、法華経の道を実践していた。
家出 大正10年1月23日25歳で東京に家出する。浄土真宗をやめて法華経に帰依してと頼んだが聞き入れてもらえなかった。父が心配して上京して一緒に比叡山や奈良などを旅する。
姉のトシは花巻で教諭していたが、また病気になったので、賢治は東京で書いた童話の原稿を大きなトランクに入れて帰ってきた。
農学校教諭時代 妹のトシが24歳で亡くなる。
羅須地時代
(らすちじだい)
大正15年・農学校の先生をやめる
「生徒には農村に帰って立派な農民になれと教えていながら、自分で先生をしてるのは心ぐるしいことだ。口だけでなく農民と一緒に、苦しくてもじっさいに土をほろう」
畑を作って野菜や花を作って町に売りにでます。いつも黄色の農民服と大きな麦わら帽子です。「羅須地人協会」となづけ、農学校で教えることを実際に教え、また音楽もしました、
いつも年も八月になると空もようばかり気にします。寒いと凶作になるからです。
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

そんな無理ばかりし、過労と粗食で体が弱ってきて、病床につくようになった。
砕石工場技師 その後三年も寝て病気もよくなった。
石灰岩を機械でくだいで肥料を作る工場に技師として懸命に働く。
その見本を持って上京し駿河台で高い熱を出して、家に帰ってきてそのまま病床につく
遺言状 この一生の間、どこのどんな子供も受けないような厚いご恩を頂きながら、いつも我慢でお心に背きとうとうこんなことになりました。
今生で万分の一もお返しできたかったご恩はきっと次の生また次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願します。
どうか信仰というのではなくても、お題目で私をお呼び下さい。
その題目で絶えずお詫び申し上げてお答えいたします。

父上さま
母上さま
臨終 それから2年は病床。九月21日、お昼、二階で合掌して題目を唱えていました。
父が「遺言することはないか」といいますと
「国訳妙法蓮華経を千部お作り下さい。
表紙は朱色、お経の後ろには”私の生涯の仕事はこの経を
あなたのお手元に届け、その中にある仏意にふれて、あたなが無上道に入られますことを”という事を書いて知己のかたにさしあげてください」
といいました。
少し水を飲んで、体中を自分でオキシフルをつけた脱脂綿でふいて、その綿をぽろっと落としたときにはもう息を引き取っていました、1時30分でした。(昭和39年1月20日)

私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります北海道の文学碑のトップに戻ります