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北海道の文学碑

北海道と函館戦争−土方歳三

土方歳三最後の地碑
土方歳三最後の地碑
今も花の絶えることがない土方歳三、終焉の地

戊辰戦争で敗北した新撰組副長・土方歳三が戦死した場所が一本木(現・若松町)といわれております。
昭和33年、その地に石碑が建立され、以来全国から訪れるファンから手向けられる花が絶えることはありません。
馬上・腹部に銃弾をうけて死亡。35歳。

鷲ノ木
鷲ノ木史跡公園

榎本艦隊は明治元年(1868年)10月21日、
軍艦八隻が蝦夷地鷲ノ木(現森町)に到着。
10月26日には函館五陵郭に入城した。
明治元年(1868年)10月19日(新暦12月2日)は新雪が降っていた。
称名寺

称名寺

土方歳三と新撰組の供養塔
(函館市舟見町
高龍寺 (高龍寺)

傷心惨目碑
函館市舟見町
函館に現存する寺院では最古とされる高龍寺。現在あるものは明治12年に亀田地区から移築されたもの。総ケヤキ造りの山門彫刻が荘厳な趣きを醸しています。
会津藩士の慰霊碑
当時の函館病院の院長・高松凌雲が敵・味方の区別なく負傷者をあたったことで有名である。
碧血碑 碧血碑
碧血碑(へっけつひ)
函館戦争(明治元年)の際 、官軍との交戦で斃れた新撰組の土方歳三ら旧幕府軍の戦死者約800人の霊が祀られています。

その後について

榎本は腹を切ろうとしたが部下にとめられる。5月17日、榎本は政府軍の参謀・黒田清隆の軍門に入る。
この戦争で政府軍は七千余名のうち死傷者を770人。榎本軍約三千人のうち戦死者800人・降伏1300人・あとは行方不明であるらしい。
川汲温泉 川汲温泉にある箱館戦争川汲戦,戦死者の慰霊碑

明治元(1868)年10月20日、鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は峠下から箱館へ向かう主力部隊と砂原、鹿部から川汲峠を越えて箱館へ向かう土方隊とに分かれた。
24日に土方隊が川汲まで進んだところで新政府軍の偵察隊と小競り合いはあり、
ひどい風雪で弱った身体をこの川汲温泉で癒しました。

鷲ノ木に上陸した旧幕府軍は箱館をめざす。
大鳥圭介隊は鷲ノ木を出発し大沼側から古峠を越えて峠下へ抜け函館へ向かう。

土方歳三隊は鷲ノ木から内浦湾沿いに砂原・鹿部・川汲から川汲峠を越えて湯ノ川へ至る。
茅部郡南茅部町川汲
明治元年11月15日、早朝。榎本武揚を乗せた徳川艦隊の旗艦開陽丸は鴎島に迫り、対岸に向けて7発の砲弾を撃ち込みました。そのとき、すでに住民の多くは避難し、町は無人となっていました。端舟で上陸した幕兵は、直ちに陣屋と砲台を占拠。開陽丸は鴎島の島影に停泊し、榎本軍は無血で江差を占領しました。
 町内随一の旅館「能登屋」で疲れを癒していた榎本司令のもとに「開陽丸、沈む」という報告がもたらされます。飛び起きて浜に駆け寄ると、北国の厳しい高波が傾いた開陽丸を襲っているのを見て、呆然と立ちすくみます。
 その頃、松前から浜伝いに藩兵を追ってきた土方歳三の軍が、予想を超える抵抗に合い、苦戦を続けていました。土方が抵抗線を突破して江差に入ったのは翌16日のことでした。血なまぐさい戦闘服姿のままで能登屋に駆け込んだ土方が見たものは、海に目を凝らして動かない榎本の姿でした。 能登屋を出た二人は、本陣とした順正寺に向かいました。途中、この時は無人となっていた檜山奉行所があり、門前まで来た二人は、そこでまだ3分の1を海面に晒した開陽丸を眺めました。 土方は目の前にあった松の幹を何度も拳で叩きながら、涙をこぼしました。後年、土方が叩いた松の幹に瘤ができ、人々はこれを「歳三のこぶし」と噂し合ったそうです。 http://www.h2.dion.ne.jp/~esashi/
江差 開陽丸 「開陽丸」に乗って時間旅行
の海が熱かった時代へ
「開陽丸」
「葵の枯れゆく散り際に開陽丸」と詠われた徳川幕府の巨船開陽丸。
 オランダで建造されて僅か1年7ヶ月後の明治元年(1868年)11月15日に(いまの暦だと12月28日)榎本率いる旧幕府軍は箱館五稜郭を占領後、松前藩最後の防衛線である江差の攻撃をもくろみ、開陽丸で江差沖へ進みましたが暴風雪のために座礁してしまいました。
それから124年、平成2年4月に実物大で再現

開陽丸

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