石川啄木(一はじめ・1886〜1912)は、明治41年(1908)親友・金田一京助
と4月28日より東京、千駄ヶ谷の新詩社に暫く滞在。5月2日、与謝野鉄幹に連れられ森鴎外宅での観潮楼歌会に出席する(参会者は8名)。5月4日、中学で一学年上であった金田一京助の援助もあり本郷区菊坂町赤心館に止宿、生計のため小説を売り込むが成功せず。逼迫した生活の中、6月23日から25日にかけ「東海の小島…」「たはむれに母を背負ひて…」など、後に広く知れ渡る歌を作り、続いて作った246首とともに翌月の『明星』に発表する。金田一は、自身が結婚するまで、友人として啄木に金銭を含むさまざまな支援をしている。 オルガノ株式会社の敷地(文京区本郷5-5) |
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東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる(一握の砂冒頭歌、初出「明星」明41.7号) |
石川啄木ゆかりの蓋平館(がいへいかん)別荘跡 (文京区本郷6−10−12 太栄館) 赤心館での下宿代が滞とどこおり、金田一京助に救われて、同年9月6日、この地にあった蓋平館別荘に移った。 11月『東京毎日新聞』に小説「鳥影」を連載。『明星』は終刊するも、続けて『スバル』の創刊準備にあたる。 小説5篇を執筆したが、売り込みに失敗、収入の道なく、短歌を作ってその苦しみをまぎらした。三階の三畳半の室に入ったが「富士が見える、富士が見える。」と喜んだという。北原白秋、木下杢太郎(もくたろう)や吉井勇などが編集のため訪れた。4月3日よりローマ字で日記を記すようになる。浅草に通い娼妓と遊んだ件が赤裸々に描写されていたためである。彼の借金のほとんどはこうした遊興に費やされ、それが為の貧困で あったと、金田一京助の子息である金田一春彦は語っている。1909年3月〜東京朝日新聞社の校正係として定職(3年あまり勤務)。旧本郷弓町(現本郷2−38−9)の喜きの床とこに移った。 ここでの生活は9か月間であった。 蓋平館は、昭和10年頃太栄館たいえいかんと名称が変わったが、その建物は昭和29年の失火で焼けた。 |
京橋の滝山町にあった朝日新聞社まで、春日通を上野広小路まで市電を乗り継いで通った。夜勤で遅くなると上野広小路からの市電が無くなり、歩くことになった。湯島天神の近くを、『切通し坂』と呼ぶが、『悲しき玩具』の中で、次のようにうたっている。 途中にて乗換の電車なくなりしに 泣こうかと思ひき 雨も降りてゐき 二晩おきに 夜の一時頃に切通の坂を上(のぼ)りしも・・・ 勤めなればかな 歌碑は切通し坂の中程、湯島天神寄りに立っている。 1909年(明治42年)6月16日、函館から家族(妻子と母)が到着し、本郷区本郷弓町の床屋「喜之床」の二階に移る。(この建物は明治村に移行されていて現在はない)10月、妻節子が啄木の母との確執で盛岡の実家に向かうも、金田一の尽力で暫く後に戻る。12月になり父も同居するようになる。 明治43年(1910)24才 10月、長男真一誕生。歌集「一握の砂」の出版契約成立。真一死。節子産後病弱。 |
切通し坂にある石川啄木文学碑 暗くて雨振りなので全然、はっきり見えないですが。 |
ふるさとの訛りなつかし 停車場の人込みの中に そを聞きに行く 上野駅構内 |
浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心 等光寺 台東区西浅草1丁目6番1号 |
京橋の瀧山町の 新聞社 灯ともる頃のいそがしさかな 石川啄木が瀧山町の朝日新聞社に勤務したのは明治42年3月から45年4月13日27歳でこの世を去るまでの約3年間である。この間彼は佐藤真一編集長をはじめとする朝日の上司や同僚の好意と恩情にまもられて、歌集『一握の砂』、『悲しき玩具』、詩集『呼子と口笛』など多くの名作を残し、庶民の生活の哀歓を歌うとともに時代閉塞の現状を批判した。 銀座の人びとが啄木没後満60年を記念して朝日新聞社跡に歌碑を建設したのは、この由緒によるものである。 昭和48年4月1日 日本大学教授 文学博士 岩城之徳 |
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現在は小石川 5-11-7。宇津木マンション。 玄関2畳と4、5畳、8畳(又は6畳)の居間と台所 残念ながら近くのマンションが工事中で看板は都に 返却したということで無かった。 |
明治44年(1911)25才 8月7日、病気回復のために環境が少し良い小石川区久堅町へ移る(現・文京区小石川5-11-7宇津木マンション)。9月3日、父が家出をする。妻とのトラブルが原因で、親友で義弟の宮崎郁雨と義絶。12月、腹膜炎と肺結核を患い、発熱が続く。 1912年(明治45年)3月7日、母死去。4月13日、啄木、小石川区久堅町にて肺結核のため死去。妻、父、友人の若山牧水にみとられている。享年26。 4月15日、浅草等光寺で葬儀、夏目漱石も参列する。 6月14日、妻節子が女児を出産。 9月4日、節子は二人の遺児を連れ、函館の実家に帰る。 翌1913年(大正2年)5月5日、節子も肺結核で病死。 遺児は節子の父親が養育する。墓 函館立待崎 |
啄木が亡くなったあとの啄木一家 1927年(昭和2年)2月20日、父、一禎が、身を寄せていた山本千三郎の任地、高知市で死亡。享年78 |