明治17(1884)年に広島県人25戸103人が集団移住し、開拓の鍬がおろされてからおよそ120年。
北広島市は、札幌市と新千歳空港の間に広がるなだらかな丘陵地帯にあり、豊かに息づく緑の環境、ゆとりの土地空間、
整備された交通網など自然と都市機能が調和した街です。
旧島松駅逓所(国指定史跡 |
駅逓は、駅舎と人馬を備えて、宿泊と運送の便をはかるため設置されたもので、開拓期の北海道で重要な役割を果たしました。
島松駅逓所は明治6年、札幌本道(現在の国道36号)の開通に伴い設置されたもので、明治17年からは市内の島松に入植し、寒地稲作の父とうたわれた中山久蔵が経営にあたっていました。 この駅逓所は、クラーク博士が帰国の途中に立ち寄り「青年よ大志をいだけ」という名言の舞台となり、また、明治14年には明治天皇本道ご巡幸の際の行在所ともなりました。 昭和59年国史跡に指定され、当時の駅逓の構造を残す建築物としては道内最古のものです 明治初期に建てられた現在で言う「道の駅」。簡易的な休憩・宿泊設備を備え、また物品の中継地として利用された。明治天皇が明治14年に北海道開拓の成果を視察のため来道した際に、お昼行在所(あんざいしょ)として利用された |
(クラ−ク像) |
またこの駅逓は、明治10年、任期を終えて北海道を去ることになったクラーク博士が、ここで一休みをした後、追いすがる学生や職員たちに「青年よ大志を抱け」の名言を遺した所としても有名である。昭和25年には、農学校の2期生だった植物分類学者・宮部金吾を発起人代表とするクラーク奨学会によって、記念碑が建てられた。 明治9年、札幌農学校(現北海道大学)に初代教頭として着任したクラーク博士は在住8ヶ月で、多くの教訓を残し別れの日を迎えた明治10年4月16日、島松駅逓所まで見送りにきた学生たちと昼食をともにし、 一人・一人と握手した後・「ボーイズ・ビー・アンビシャス(青年よ大志をいだけ)のことばを残して去っていったのは明治10年の4月であった。 このときはクラ−クは51歳でした。 |
北広島市Hpより http://www.city.kitahiroshima.hokkaido.jp/
●寒地稲作発祥の地 明治4年、北広島がまだ原野でおおわれていた頃、 島松沢にひとりの男がやってきました。 当時北海道では米づくりが不可能とされ、この米づくりにチャレンジした男こそ、中山久蔵。 久蔵は、「赤毛種」と呼ばれる寒さに強い稲の試作をはじめ、水温を一定に保つため昼夜を問わず風呂の湯を運び、まさに執念ともいえる苦労を重ね、ついに発芽に成功しました。 明治6年の秋には反当り345kgの米を収穫。 北海道の米づくりの夜明けとなりました。 その後も、開拓移民に種もみを無償で配布、ここから全道に米づくりが広がっていったのです |
国道16号線は支笏湖への道で、千歳川をさかのぼる。
千歳川流域には第一から第四まで王子製紙苫小牧工場の自家発電所が設置されていた。
有島武雄は明治33年に千歳にきたとき、その足で道道16号線千歳川をさかのぼっている。
日記には「折々人家あれとみれば是皆アイヌの住む者有之」と書き
明治21年という早い時期に時期に設置された千歳鮭魚孵化場(現さけ・ます資源管理センタ−)を見学した。
その体験が「星座」の中に書かれている。
斉藤茂吉は51歳で北海道をまわったが・昭和7年・そのときに
「孵化場を出でてきたれば流れいる水の勢いに小魚思ふし」と読んだ。
苫小牧 | |
地の音よ 樽前山よ わが青春 小桧山博文学碑 苫小牧市末広町 市民文化公園 |
故郷(ふるさと)会津を出て、たどりついた北の大地。 極貧の暮らしのなかで、愛憎にゆれながら、 苛烈な運命と闘い必死に生きる家族。 振りむけば、いつもそこに輝く大雪山。 〜開拓者だった父〜 『光る大雪』はぼくの父母の一生であると同時に、小檜山一族の履歴である。ほとんど事実そのままを書いた。だから当然、ぼく自身も出てくる。 ぼくも父が19歳から漂泊した道筋をたどって各地を歩いた。そういう日々、僕は自分の中に父がいるのを感じ、自分の眼が父の眼になって風景や人を見ているのを感じだ。――(後記より) なめられる大地 最近、一番、不愉快なことの一つに、われわれのこの北海道の宣伝文句が「試される大地」に決まったことがある。 (中略) 戦争に負けたときに日本の政治家は「仕方ない、北海道はソ連にやる」と思っていたというのだ。いつの時代も東京を中心を中心とした本州に住む人々は北海道と沖縄を切り捨てて、本州だけ生き延びようを考えてきたからだ。つまり本州から見た北海道は「なめられる大地」となる。 網走支庁 滝上町生まれ 苫小牧工業高校卒業 |