石川啄木と小樽
1907年 明治40年 満21歳 小樽 約100日 啄木が釧路に去った後、家族は花園町畑十四番地の星川丑七宅に移った。現在の花園3丁目13-4、現片岡宅。 |
初回の住居 南部煎餅屋西沢宅 |
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啄木は明治四十年十月二日この地にあった南部 煎餅屋西沢善太郎方二階に間借りした 日記にも詳しく書いているが、函館の岩崎正に 宛てた手紙にも「今日かはたれ時の薄暗がり時、 駅夫に牽かせたる大八車を先立てて中央停車場 の駅長官舎をでて、この名も優に美しき花園町 の南部煎餅売る店に移り住みたる男女四人有之 候、四人の一人は小生にて あとは母と節子と 可愛き京ちゃんに候、室は二階二間、六畳と四 畳半にて何れも床の間あり思ひしよりは心地よ く候・・・・・」と書き送っている。 宮崎郁雨が見習士官として旭川へ入隊、秋の機 動演習中休暇をとり啄木に会いにきたのがこの 南部煎餅屋である。 この啄木の隣室に 「泣くがごと首ふるはせて手の相を見せよとい ひし易者ありき」と詠まれた 売卜者天口堂 海老名又一郎がいた、この南部煎餅屋が現在の た志満である。その後、改築されたが啄木の住 んだ当時の二階の床柱二本は今も残されている。 小樽市 |
「味処た志満」内部 |
石川啄木と小樽日報社跡
かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人々の 聲の荒さよ小樽日報は、道会議員の白石義郎氏が明治40年10月創立し、 石川啄木、野口雨情らが発刊に加わった。 小国露堂の紹介で、札幌の北門新聞から明治40年9月27日 小樽日報社に入社するため来樽した啄木は雨情とともに三面 記事を担当した。当時小樽に姉が嫁いでいたこともあって函館 から家族を呼び寄せ、新しい土地での仕事に情熱を燃やした が、主筆の岩泉江東とことごとく意見が対立し、わずか十数日 で小樽を去った雨情のあとを追うように、同年12月12日退社 し明治41年1月19日小樽を去った。 小樽市 |
味処た志満で見つけた貴重なおまけ
大江健三郎
石川啄木・小樽花園公園内の歌碑 こころよく、我にはたらく仕事あれ、 それを仕遂げて、死なむと思ふ |
1907年5月、北海道にわたり、函館で代用教員や地元紙の記者をはじめる、家族を呼び寄せるが、8月15日の大火にあう。 小樽、釧路など、道内を転々とした末、1908年、単身上京。 金田一京助の世話になる一方、芸者にいれあげ、 借金を重ねる 明治20年(1907年)9月末、21歳で小樽日報の創業に 参加するため来樽。 小樽日報では野口有情と3面記事を担当したが。 しかし、100日余りで事務長と喧嘩し呼び寄せた家族を残し釧路へ。 |
子を負ひて雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな 石川啄木文学碑 小樽市 小樽駅 同駅(旧中央小樽駅)は、啄木の義兄が駅長を務め、 啄木が妻子を残して釧路へ旅立った場所でもある。 高さ約二・五メートルの碑には「子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな」の歌を刻んだ。 「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ |
かなしきは小樽の町よ歌うこと なき人々の声の荒さよ 石川啄木文学碑 (小樽市 水天宮 境内) 「小樽に来て初めて植民地精神に溢れた 男らしい活動を見た。小樽の人は歩くのではない、 突貫するのである。 朝から晩まで突貫する小樽人こそ明日の 日本をつくる気迫がある。」と礼讃したとある。 |