森鴎外記念室
観潮楼と鴎外 この記念室は、森鴎外(本名・森林太郎)が明治25年から大正11年7月9日60歳で亡くなるまで30年間住んでいた家・観潮楼跡にあります。記念室の所在地である千駄木町21番地(当時)を新たな住まいとして選んだのは鴎外の父静男でした。当時、静男は足立区の千住で開業していた医院をたたみ、息子の鴎外と共に住もうと家を探していました。そして方々を探し歩き、眺望の良い家としてここが目に止まったのです。その当時、鴎外は同じ千駄木町の57番地に住んでいましたが、父のすすめを受け、一家はこの地に住むことになります。 |
千駄木町の57番地の家には森鴎外が去ること11年目、明治36年(1903) イギリスから帰朝した夏目漱石が住みました。この家で「吾輩は猫である」が執筆されたことから、現在通称『猫の家』と呼ばれています。(『猫の家』現在は明治村に移築、碑のみが残っています。) 鴎外の家の建て増しした2階からは遠く東京湾 品川沖の白帆がながめられたことから、鴎外はこの家を「潮を観る楼閣」=「観潮楼」と名づけました。 鴎外の次女、小堀杏奴氏の著書『晩年の父』には、このようなエピソードがあります。「結婚して間もなく父は母を連れてこの二階に登り、「おい、海が見えないか」と聞いたそうだ。母は長い間見ていたが、「どうしても私には見えません」といったら父は笑いながら、「お前は正直だ。俺がそういうと、ああなるほど見えます見えますなんていう人がいるが、どんな人にだって見えるはずはないんだよ」といったそうである。」 鴎外は、人生の大半を観潮楼で過ごしており、代表的な作品のほとんどはこの地で執筆されました。「ヰタ・セクスアリス」「青年」「雁」「阿部一族」「山椒大夫」「高瀬舟」等は、この地で書かれたものです。 文学サロンとしての観潮楼 観潮楼は文学サロンとしても大きな役割を果たしていました。明治40〜43年にかけて観潮楼歌会が開かれました。与謝野鉄幹、伊藤左千夫、佐佐木信綱、平野万理、齋藤茂吉、上田敏、石川啄木などがこの地に集いました。このように人が集う際に使われていたのが海の見える2階の部屋でした。 |
大銀杏です。 | 人冗語の石です。鴎外が創刊した『めさまし草』という文芸雑誌に「三人冗語」という合評欄があり、当時人気を集めていました。その評者三名(森鴎外、幸田露伴、齋藤緑雨)が写っている写真があり、鴎外が座っているのがこの石です。 鴎外が、「三人冗語」で樋口一葉の小説「たけくらべ」を絶賛したことは有名です。 |
褐色の根府川石に 白き花はたと落ちたり ありとしも青葉がくれに 見えざりしさらの木の花 昭和23年6月 永井荷風書 |