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北海道の文学碑

その他の文学碑(東京)

再び東京! 2008年1月23日、午後6時頃。

雪が雨に変わり、傘もささずに歩いた一日目。

東大病院 暗くて見えないなぁ。
さだまさしの歌にある
「無縁坂」

無縁坂を探して行ったら灯り。
道ゆく人に尋ねたら「東大病院」だと教えられた。
その名前は、坂の上に無縁寺があったことに由来
「森鴎外」の「雁」に出で来る坂道。

当たり前だけれど、この病院で過ごしている人も
確かに存在する。
こうしていられる事に感謝しなくては・・
東大病院 無縁坂      
さだまさし 作詩・作曲
母がまだ若い頃 僕の手を引いて
この坂を登る度いつもため息をついた
ため息つけばそれですむ 後ろだけは見ちゃ駄目と
笑ってた 白い手はとても柔らかだった
運がいいとか悪いとか 人は時々口にするけど
そういう事って確かにあると あなたを見ててそう思う
忍ぶ 不忍 無縁坂
噛みしめるような ささやかな僕の母の人生

いつかしら僕よりも 母は小さくなった
知らぬ間に白い手は とても小さくなった
母は全てを暦に刻んで 流してきたんだろう
悲しさや苦しさは きっと有った筈なのに
運がいいとか悪いとか 人は時々口にするけど
巡る暦は季節の中で 漂いながら過ぎて行く
忍ぶ 不忍 無縁坂
噛みしめるような ささやかな僕の母の人生

東京の文学碑

高村光雲 高村光雲・豊周遺宅
高村光雲(嘉永5年2月18日(1852年3月8日) - 1934年(昭和9年)10月10日)は仏師、彫刻家。高村光太郎は長男。智恵子と結婚するまでここで暮らす。高村豊周は三男だtぅたが家督をつぐ。
江戸下谷(現・台東区)に町人兼吉の子として生まれる。1863年から仏師高村東雲の元に徒弟となる。後に師匠東雲の姉エツの養子となり高村姓となる。
明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で仏師としての仕事は無く、木彫も輸出用の象牙彫刻が流行し衰え、光雲自身の生活も苦しかった。そのような中で光雲は木彫に専念、積極的に西洋美術を学び、衰退しかけていた木彫を写実主義を取り入れることで復活させた。
1890年から東京美術学校に勤務、翌年に彫刻科教授、帝室技芸員に任ぜられる。
老猿(東京国立博物館蔵) 西郷隆盛像(上野公園)
楠公像(皇居前広場)
画像を撮った日、ちょうど日用品を届ける宅配便と遭遇
芥川龍之介
芥川龍之介文学碑

芥川龍之介文学碑 杜子春
「お前はもう仙人になりたいという望(のぞみ)も持っていまい。
 大金持になることは、元より愛想がつきた筈だ。
 ではお前はこれから後、何になったら好(い)いと思うな」
「何になっても、人間らしい、正直な暮しをするつもりです」
杜子春の声には今までにない晴れ晴れした調子が罩(こも)っていました。

芥川龍之介(1892〜1927)
龍之介は明治25年3月1日、京橋区入船町8丁目1(現中央区明石町)。
生後7ヶ月で母が精神病となり、この地本所区小泉町15番地に住む伯父の芥川道章に引き取られ、やがて養嗣子として育てられました。
1927年7月24日未明、友人にあてた遺書に「唯ぼんやりした不安」との理由を残し、服毒自殺。龍之介は自分も母と同じ病気になるのではないかと思い悩んでいた。35歳。
芥川龍之介生誕の地
芥川龍之介生育の地ー両国3丁目22
(写真右、関係ないですが東京ディズニーランド.)
長谷川一夫の顕彰碑
長谷川一夫の顕彰碑
清光寺ー台東区西浅草1-7-19
長谷川 一夫(はせがわ かずお、1908年2月27日 - 1984年4月6日)は、京都府京都市伏見区出身の俳優である。

「わたくし、生まれも育ちも、葛飾柴又です。
帝釈天で産湯をつかい、姓は、車 名は寅次郎。
人呼んで、フーテンの寅と発します。」
山田洋次
(京成金町線柴又駅前)

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