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樋口一葉文学碑

札幌に帰る予定の東京は風の強い日でした。昨日から歩いた足の痛みは少し無くなったけれど、やっぱり痛い。
札幌は吹雪により、飛行機の欠航や遅れがあり、気持ちばかりが急いで大事な「一葉旧居跡碑」など見落としてしまった。
撮ったはずの「一葉記念館」の外装が撮れてなかったり、残念でした。
何度も行きたい東京です。

樋口一葉文学。文の説明は一葉記念館による。http://www.taitocity.net/taito/ichiyo/
明治 5年(1872)4才から9才
陰暦3月25日朝8時、樋口一葉 【本名「奈津」(なつ)】は、父 則義、母 多喜の次女として、東京府第二大区一小区幸橋御門内(現千代田区)にあった東京府庁構内の長屋で生まれた。父則義は、江戸南町奉行支配下の同心であったが、維新後の当時は東京府庁に勤め、生活も当時では中流ぐらいの家庭に育った。 幼少時代(明治9年/4月〜14/10)
樋口一葉は明治5年3月に今の千代田区内幸町で生れた。
東大 赤門
東大 赤門 雨が降っていて暗くてこんな写真になっていました。
樋口一葉菊坂旧居跡 樋口一葉菊坂旧居跡

(本郷4ー32・31)本郷菊坂時代(2年10か月)
明治19年(1886)14歳で小石川安藤坂にあった中嶋歌子の歌塾「萩の舎(はぎのや)」へ弟子入りして、ここで和歌・書道(千蔭流)・古典を学んだ。明治20年(1887)15歳の時に長兄 泉太郎 死去。明治22年(1889)17歳の時に父・則義 死去。奈津達は、一時は次兄虎之助の借家に転居するものの、母 多喜と虎之助の対立は絶えなかった。虎之助は、奈津が6歳の時に分籍になっていたこともあり、彼女が家督相続人となる。
明治23年(1890)18歳、9月末から、本郷区菊坂町七十番地を借り、母多喜と妹くにを住まわせる。自分は中嶋歌子の家に住み込みながら、母や妹とともに針仕事・洗張・蝉表 (せみおもて)などの内職をして生活した。

明治24年(1891)19歳
東京朝日新聞記者兼専属作家の半井桃水(なからいとうすい)について、初めて小説の手ほどきを受ける。この頃から、筆名「一葉」が使われはじめた。一葉の本名は奈津ですが、夏子の署名が多くみられます。「一葉」のペンネームを使いはじめたのは明治24年秋頃からで、発表された作品では、小説「闇桜」の時からです。
昔インドの達磨大師が、中国の揚子江を一葉の芦の葉に乗って下ったという故事に因んだもので、一葉は「達磨さんも私も、おあし(銭)がない!」としゃれていたといわれて
います。
明治25年(1892)20歳。
桃水の主宰した雑誌『武蔵野』に小説「闇桜」がのり、次いで萩の舎の先輩であった田辺花圃(後の三宅雪嶺夫人)の仲介で、雑誌『都の花』に「うもれ木」が連載され、これが一葉の出世作となった。
旧伊勢屋質店旧伊勢屋質店 (本郷5ー9ー4
吉原大門
「吉原大門」
「吉原」は江戸で唯一,幕府から公認を受けた遊郭である.
萩の舎での醜聞が原因で半井桃水と絶交し、小説も売れない一葉は食い詰めて商売を思い立ち、明治26年(1893)21歳、7月には、生活苦を打開しようと吉原遊郭の近く下谷龍泉寺町三百六十八番地へ移り、荒物雑貨、おもちゃ、菓子などを売る小店を始めた。新吉原に隣接する竜泉寺町に転居する。
遊郭への通い道沿いの長屋に、雑貨屋を開き一葉は買い出し、妹が店番を担当した。

「たけくらべ」にも出てくる「見返り柳」

 「廻れば大門の見返り柳いと長けれど、お齒ぐろ溝に燈火うつる三階の騷ぎも手に取る如く、明けくれなしの車の行來にはかり知られぬ全盛をうらなひて、大音寺前と名は佛くさけれど、さりとは陽氣の町と住みたる人の申き、三嶋神社の角をまがりてより是れぞと見ゆる大廈もなく、かたぶく軒端の十軒長屋二十軒長や、商ひはかつふつ利かぬ處とて半さしたる雨戸の外に、あやしき形に紙を切りなして、胡粉ぬりくり彩色のある田樂みるやう、裏にはりたる串のさまもをかし、一軒ならず二軒ならず、朝日に干して夕日に仕舞ふ手當ことごとしく、一家内これにかかりて夫れは何ぞと問ふに、知らずや霜月酉の日例の神社に欲深樣のかつぎ給ふ是れぞ熊手の下ごしらへといふ...」
樋口一葉『たけくらべ』の書き出し

「見返り柳」は,遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ,この柳の辺りで遊郭を振り返ってしんみりとしたところから,この名がついたという.
吉原大門「見返り柳」
一葉終焉の地
『花ははやく咲て散がたはやかりけり。あやにくに雨風のみつづきたるに、かぢ町の方上都合ならず、からくして十五円持参、いよいよ転居の事定まる。家は本郷の丸山福山町とて、阿部邸の山にそひてささやかなる池の上にたてたるが有りけり、守喜といひしうなぎやのはなれ座敷成しとてさのみふるくもあらず、家賃は月三円也、たかけれどもこことさだむ。店をうりて引移るほどのくだくだ敷おもひ出すもわずらはしく心うき事多ければ得かか(書)ぬ也。
 五月一日 小雨成しかど転宅、手伝いは伊三郎を呼ぶ。』

毫は平塚らいてうによる。碑面の文は、一葉日記の明治27年(1894)、5月1日、竜泉寺の家から、ここに転居した時のものが撰文された。
一葉終焉の地
 (丸山福山町4番地。現在は文京区西片1−17−17)
明治27年(1894)22歳、約9ヵ月で龍泉寺町の店を閉じ、本郷区丸山福山町四番地へ転居。
久佐賀義孝に千円の借金を申し入れたが、月十五円で妾になれと言われ腹を立てて断り状を出した。

明治28年(1895)23歳1月から約一年間にわたり龍泉寺町時代の生活体験から取材した「たけくらべ」を『文學界』に連載し、この間に「大つごもり」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」などを発表した。

樋口一葉の最期は
斉藤緑雨が森鴎外と相談し、青山胤通の往診を受けたが今日明日の命と申し渡される。緑雨は樋口一葉が亡くなった後、その家族の面倒をよく見ていた。一葉の母たきの葬儀の時は葬儀委員長をしている。
明治29年(1896)24歳。11月23日午前、肺結核のため24年の短い生涯を閉じた。
二十五日の葬儀は妹くにの考えで内輪にしたため、会葬者はわずか十数人という寂しいものであった。
築地本願寺に葬られ、のち杉並区和泉(現永福一丁目)の本願寺和田堀廟所に改葬された。
樋口一葉記念館(旧館)入口に建つ「樋口一葉記念碑」

 ここは明治文壇の天才樋口一葉旧居のあとなり。一葉この地に住みて「たけくらべ」を書く。明治時代の竜泉寺町の面影永く偲ぶべし。今町民一葉を慕ひて碑を建つ。一葉の霊欣びて必ずや来り留まらん。
 菊池寛右の如く文を撰してここに碑を建てたるは、昭和十一年七月のことなりき。その後軍人国を誤りて太平洋戦争を起し、我国土を空襲の惨に晒す。昭和二十年三月この辺一帯焼野ケ原となり、碑も共に溶く。
 有志一葉のために悲しみ再び碑を建つ。愛せらるる事かくの如き、作家としての面目
これに過ぎたるはなからむ。唯悲しいかな、菊池寛今は亡く、文章を次ぐに由なし。
僕代って蕪辞を列ね、その後の事を記す。嗚呼。
 昭和二十四年三月
  菊  池   寛撰 小島政二郎補並書
樋口一葉記念館
一葉女史たけくらべ記念碑

一葉と交流のあった歌人・佐佐木信綱が一葉を偲んだ歌二首が刻まれた碑

一葉記念公園内にあり、一葉の代表作「たけくらべ」を記念して昭和26年11月、地元の一葉記念公園協賛会により建てられたもの、碑に刻まれた二首は以下のとおり。
1「紫の古りし光にたぐへつべし 君こゝに住みてそめし筆のあや」意味(紫式部の昔の源氏物語の輝きになぞらえてもよいであろう。一葉君がここ竜泉に住んで筆を染めて著した「たけくらべ」のみごとさは。)
2「そのかみの美登利真如らも この園に 来あそぶらむか 月白き夜を」意味(その昔の「たけくらべ」に登場する美登利や真如達もこの公園に来て遊ぶだろうか、月の白い夜に。)
樋口一葉記念館

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