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三島由紀夫清水基吉
ペンネーム「三島由紀夫」は、伊藤左千夫の名にヒントを得てこのときから用いる
久々に美しい日本語に接しました
東大法学部を卒業したばかりの三島が、芥川賞作家の清水基吉へ宛てた手紙。
「日本の文学であり日本語を使っている以上日本語として美しくなければ感動するわけにはゆきません」という三島は、
清水の「去年の雪」を読み、「久々に美しい日本語に接しました」「日本に開花しためづらしいドイツ・ロマンテイケルの青い花です」などと
学生らしさの残る清々しい文面を書き送っている。三島は、多大な影響を受けた川端康成の住む鎌倉をよく訪れていたが、」
扇ヶ谷の清水宅へも学生服姿で数回訪問している。文末に「十二月六日から高文の口頭試問」とあるのは、
高等文官試験行政化の試験のことで、翌月には大蔵省銀行局に勤め始めている。
  三島由紀夫 大正14年(1925)、東京に生まれる。本名・平岡公威(ひらおか,きみたけ)、なつ(祖母)、定太郎(祖父)、美津子(妹)、公威(由紀夫本人)、梓(父)、倭文重(母)、瑤子(妻)。祖父の平岡定太郎は明治・大正期に活躍した官僚であり、原敬の側近。福島県知事や樺太庁長官を歴任した。父の平岡梓も農商務省の官僚である。16歳で「文芸文化」に「花ざかりの森」を発表するなど、早熟な才能を著わし、東大在学中には文壇に入った。卒業後勤めた大蔵省を9ヶ月で退職し、本格的な作家生活を開始。1949年(昭和24)「仮面の告白」で注目を集め、「禁色」「金閣寺」「サド侯爵夫人」など華麗で絢爛たる三島文学を築いた。1951年朝日新聞出版局長嘉治隆一の尽力により、特別通信員の資格で横浜から乗船、世界一周旅行に出発。 翌年5月10日帰国。43歳の時北海道千歳演習場(信濃台)で陸上自衛隊第7師団の61式戦車に試乗。「楯の会」を組織するなど軍国主義的な行動も示す。文学以外でもボディービルや剣道の練習、映画出演などで話題をまいた。1970年「楯の会」の学生と、東京市ヶ谷の自衛隊東部方面総監部に乗り込み、自衛隊の決起を促したが果たせず、昭和45年11月25日割腹自殺。
清水基吉様
その後いかがお暮らしでいらつしやいますか、本日「文芸」十月号の御作「去年の雪」拝読、急に
お便りしたくなりました、僕は凡そ小説を読むのに、主義や思想についての偏見はもたず、共産党の小説でも右翼の小説でも 中学生の小説でも、よいものには打たれる魂をもちたい、他人の中にある何物かに驚く心は自分に驚く心であり、他の発見は自己の発見である、他に感動しなくなれば自己の発見も終わる、僕はかういふ信念を川端さんから学びとりましたしかし日本の文学であり日本語を使つている以上日本語として美しくなければ感動するわけにはゆきません、新しい文学は新しい文体であるのみでは意味がなく、新しい言葉であるべきこと、それは横光、川端、堀、岡本かの子など真の新しいさを以てあらはれた作家にあてはまることです、
この夏あたりから、舟橋氏の「駕毛」、川端さんの「続雪国」、北条誠氏の「曲芸」などに感動して来ましたのも、真の新しさといふものがむしろこの方向から萌え出しつつあるにではないかといふ、僕の本能的な嗅覚からでした、今貴下の「去年の雪」をこの系列に加へることは、あるひは貴下にとつて御不本意であるでせうか、しかしかういふ系統から新しさの意味を求めようとする僕の嗅覚はわかつていただけることと思ひます。
 右冗冗と妄言を申しました、又御上京の折は御立ち寄り下さいませ
 十二月六日から高文の口頭質問で、又、勉強しなければなりません、どこまでつづくぬかるみぞ
 では向寒の折柄お体お大事に
                    三島由紀夫 (原文)
 十二月十五日
清水基吉様