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川端康成〜北条民夫実に態度も立派で、凄い小説です。
昭和九年八月、新人の才華発見の名手だった川端に北条は初めて手紙を書いた。以後、すべての作品が川端の目を経て雑誌に発表されていく。この手紙は北条がハンセン病のため、東京府下東村山の全生病院に入院しているときのもので、北条の名作「いのちの初夜」誕生の経緯を伝えている。この作品はハンセン病の宣告を受けた青年が数度の自殺未遂ののち、やはり生きてみようと思いはじめるというもので、北条の実体験に基づいている。この手紙で川端はタイトルを「その初めの夜」「いのちの初夜」「入院」などと提案し、「立派なものです」「実に態度も立派で、凄い小説です。この心を成長させて行ければ、第一流の文学になります。」と評価している。

 川端康成 三島郡豊川村尋常高等小学校(現茨木市豊川小学校)、茨木中学校(現茨木高等学校)、第一高等学校(現東京大学)を経て、東京帝国大学文学部英文科にすすんだ。幼時に父母を失い、その後、祖母、姉、祖父を次々に失い、16歳のとき天涯孤独の身となった。叔父に引き取られた中学校在学中から小説家を志し、第一高等学校2年生の秋、初めて伊豆に旅し、旅芸人と道づれになり、その経験をもとに後年「伊豆の踊子」を書いた。大正13年大学卒業後、横光利一らとともに「文芸時代」を創刊し、「伊豆の踊子」などを発表して作家的地位を確立した。その後、「浅草紅団」など浅草ものといわれる作品を書き、また「禽獣」から「雪国」にいたって、いわゆる川端文学の一頂点をきわめた。
 戦後も、「千羽鶴」「山の音」「眠れる美女」「古都」などを発表し、みがきぬかれた文体で独自の叙情の世界を描きつづけた。昭和36年、文化勲章を受章。また、昭和43年には、日本人として初めてのノーベル文学賞を受賞した。その後多忙を極め、年齢や病気のためもあってか、創作力も衰え、1972年、逗子のマンションでガス自殺を遂げた。72歳。墓所は、神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園。
北条民夫様
只今講了、立派なものです、批評は申上げるまでもありません。また聞きたいとお思ひになる必要もないでせう。文壇の批評など聞く代りに第一流の書をよみなさい。それが立派に批評となってあなたに働くでせう。早速発表の手続きをとりますが、急がないで下さい。「立派」「手帳」その他少々誤字あり、直しときました。「憔悴」は「顛倒」と直しときましたが、それでいいのですか。題は「その初めの夜」「いのちの初夜」「入院」など考へましたが、最初の一夜の方素直で気取らずよろしいと思はれます。「いのちの初夜」はちよつといいとも思はれますが。佐柄木が「いのち云々」というとこともあつて。最初の一夜は幾分魅力が薄い。
 実に態度も立派で、凄い小説です。この心を成長させて行けば、第一流の文学になります。
          十二月二十日                 川端康成
今私はバイブルを読んでいますが実に面白い、お読みになるとよいと思ひます。
感傷的な宗教書としてでなく、強烈な精神の書として。病院になければ送ります。