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樋口一葉〜半井桃水。
14歳の時に歌塾「萩の舎(はぎのや)」へ弟子入り
し、和歌や書道・古典を学ぶ。
19歳で父を亡くし、一家の主として家計を支えるため小説家を志し半井桃水(なからい・とうすい)に弟子いりする。
翌年、出世作となる「闇桜」「うもれ木」を発表。
その後、「文学界」同人たちと親しくなり、彼らから悩みや苦しみを打ち明ける手紙を受け取る。
21歳で吉原遊郭の近隣に駄菓子屋を開業、翌年には本郷の銘酒屋街へ転居するという
不安定な生活を送る中、これら底辺に生きる女性達に鋭い眼差しを向け続け、
代表作「たけくらべ」「にごりえ」などの作品に結実させた。
明治29年、わずか24歳で結核のため短い生涯を閉じた。
残された手紙には秘められた愛・友への想い・生活の悩みなどが綴られている
樋口 一葉   東京府庁構内の武家屋敷で東京府庁の役人、樋口則義の次女として生まれる、母は多喜
 一葉は幼い頃は裕福な家庭に育ちましたが、小石川安藤坂にあった中嶋歌子の歌塾「萩の舎(はぎのや)」へ弟子入りして、ここで和歌・書道(千蔭流)・古典を学んだ。17歳で父を亡くし、女性でありながら戸主として一家を支えなければならなくなってからは苦労が絶えませんでした。小説の師半井桃水18歳(明治24年)の時、母と妹を養うために小説家を志しますが、それだけでは生活は成り立たず、生活苦を打開するために、明治26年7月、龍泉寺町で荒物・雑貨と駄菓子を売る店を始めます
一葉は母妹を養うために書いた小説等の他に、十六歳から書き続けた詳細な日記を残した。この日記は死後焼き捨てよとの遺言に背き、妹邦子が秘匿し続けた。邦子は日記のみならず小説の草稿は勿論、反古や手紙の下書等にいたるまで姉の書いたものは一枚たりとも粗末にしなかった。今日近代作家の中でも樋口一葉研究が量と質とにおいて突出しているのは、一葉の遺稿の保存・浄書に力を注ぎその業績を生涯かけて守った邦子の存在あってのことである...
半井桃水様。
御はなし申上げんとせし趣向二つあり
小説家をめざした一葉は夏子(一葉)が妹の友人のツテ東京朝日新聞の専属作家であった半井桃水(なからい・とうすい)に弟子いりする。
半井桃水が一葉のために身銭をきって創刊した雑誌「武蔵野」に第一作「闇桜」を発表する。夏子(一葉)には父の決めた婚約者がいた。恩人真下専之丞(ましもせんのじょう)の妾腹の孫で、早稲田専門学校で法律を学んでいた渋谷三郎である。将来を見込んでのことだった。父の病没後、母滝子が話をはっきりさせたいと切り出すと、三郎は「しばし待ち給えへ。猶よく父兄とも談じて」とその日は帰り、後日人を立てて婚約に際し<高額な結納金を要求してきた。
破談により男性不信に陥っていた一葉だったが、初対面の桃水は風貌よく長身の美しい男性だった。一葉は一目でひきつけられた。君はとしの頃三十ばかりにやおはすらん。姿形など 取立ててしるし置かんもいと無礼なれど ( 中略 ) 色いと白く面おだやかに少し笑み給えるさま、誠に三 才の童子もなつくべくこそ覚ゆれ。丈は世の人にすぐ れて高く、肉豊かにこえ給へば、まことに見上る様にな ん( 日記「若葉かげ」より ところが萩の舎社中では「一葉は今にやくざ小説家の食ひものになる」という悪口や、「桃水が一葉を妻だと言いふらしている」という悪評が立っていた。それを知った一葉は驚き、噂を確かめもせず、師匠の歌子に勧められるまま桃水との絶交を決める。六月二十二日、一葉は桃水を訪問し二人の仲が疑われていることを理由に、せっかく桃水がお膳立てした尾崎紅葉との面会も断り、桃水に絶交を申し出た。しかしこの日以来、一葉は一層屈折し傷ついた桃水への恋心を抱くことになった

斉藤緑雨より
作家は必ず孤立すべきもの。
葉は明治二十九年一月までの十数ヶ月間に「おおつごもり」「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」「わかれ道」と矢継ぎ早に作品を発表し、いずれも高い評価を受けた。中でも文壇の皮肉屋として知られた斉藤緑雨は独特の評価をして一葉に強い興味を示し、何度も訪問している。一葉も緑雨に自分と共通する孤独な「すね者」の一面を見て取り、自分の文学の理解者と認めたが、緑雨ほどには本音をさらけ出さなかった。
一葉の家に出入りする「文学界」の連中は追い払い、作家は必ず孤立すべきものだから、ただまっすぐ自分の道を進むようにと警告の手紙。我れは女なり、いかにおもへることありとも、そは世に行ふべき事か、あらぬか (「みづの上」日記 明治二九、二、二十)


師の君 御前に  なつこ