私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります北海道の文学碑のトップに戻ります

プラウザの「←戻るボタン」で戻り下さい

芥川龍之介
芥川は35年の生涯を終えるまで1700通の手紙を書いています。
初期の手紙には詩や短歌を用いることが多かったが、次第に俳句や挿絵を添える。
また親しい相手には、話しかけるように飾らない言葉で綴った。
後に妻となるとなる恋人の塚本文に宛てて
「文ちゃんは何もできなくてもいいのですよ」
「赤んぼうのようでおいでなさい。それが何よりいいのです。
僕も赤んぼうのようになろうと思うのですが、中々できません」と素直に書いている。
複雑で醜い人間関係をたびたび小説の中に描いた芥川だが
彼の本心はこうした手紙を通して感じとることができる。
また芥川が病気と闘い、死へと向かう道行における隠された思いを残された手紙から読むことができます。
芥川龍之介 892年誕生。明治25年(1892年)
3月1日誕生。父・新原敏三、母・ふくの長男として生まれた。辰年、辰月、辰日、辰刻の生まれにちなんで龍之介と命名された。父が後厄(43歳)母が大厄(33歳)、いわゆる「大厄の子」として捨子の形式が取られ、家の向かいの教会に捨てられる。10月、母ふくが発狂。龍之介はふくの実家芥川家に引き取られ、ふくの兄芥川道章・儔(とも)夫婦及びふくの姉ふきによって養育されることになる。龍之介は12年後に、芥川家の養子として入籍している。
実父敏三と叔母ふゆ(実母ふくの妹)の間に得二誕生。明治40年(1907年)この年、後に妻となる塚本文と知り合う。文は父を日露戦争で失い、母、鈴の実家・山本家に母、弟とともに移っていた。芥川の親友山本喜誉司は、鈴の末弟。、吉田弥生との恋愛が破局になる。このことは、後の芥川の人生に大きな影響を及ぼす。塚本文と、結婚式を挙げる長男比呂志誕生。名前の由来は友人の菊池寛よりもらう。大正3年、一高(現東京大学教養部)の出身者による『新思潮』に「老年」を発表し、以後創作活動の道に進む。
大正5年発表の「鼻」が夏目漱石の目に留まり、文壇にデビュー。「地獄変」をはじめとする数々の名作を世に送り出した。大正10年には中国を旅行するが、この時期から体調を崩し、自身の創作に影響を及ぼしはじめる。昭和2年7月24日、「ぼんやりとした不安」という言葉を残し、自宅で服毒自殺。身辺小説「歯車」、執筆活動とかかわってきた半生を描く「或阿呆の一生」、キリストにみずからを投影した「西方の人」「続西方の人」などが最後の作品となった。
小穴隆一様
一ショニ屁子玉ヲトリニマイリマセウ
小穴は芥川の著作集の装丁を多くてがけた画家で、芥川から最初に自殺のことを打ち明けられ、死んだらデスマスクを描くように頼まれていた。
また子供たちに宛てた遺書には「小穴隆一を父と思え」と書き残されていた。
小穴は芥川の死に顔を写しながら、覚悟はしていたがこんな悲しみの中で筆をとるとは思わなかったとその死を嘆いたという。
菊池寛から芥川へ。
友よ安らかに眠れ!

芥川は昭和2年7月24日午前6時半、自宅で睡眠薬を致死量服用して自殺した。
机上に残された「或る旧友に送る手記」には、自己及び一般自殺者の心理が原稿用紙18枚に書かれ、自殺の動機について「僕の場合はただぼんやりとした不安である
」と記されていた。27日に東京谷中で執り行われた告別式で、一校以来の友人の菊池寛は友人総代としてこの弔辞を読んだ。読む前から涙に暮れていたが「友よ安らかに眠れ!」というあたりからは泣き崩れ声にならず、聞くものも声をあげて泣いたという。
芥川の死によって文学界のひとつの時代が終わりを告げたといわれる、
昭和十年、文芸春秋社社長の菊池は芥川龍之介の名を記念するために「芥川賞」を創設した。