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北海道の文学碑

石狩平野ー美唄・上砂川・滝川・歌志内・深川まで(NO2)
札幌から岩見沢・歌志内・滝川・北海道最大の広さを持つ石狩平野。

幹線は国道12号線であるが農村地帯であるとともに空知炭田があった

上砂川
砂川町は明治32年に福井県鶉村からの開拓者によりこの地に鍬が入れられたのが発祥で、
明治44年には三井鉱山株式会社が起業。以来石炭の町として発展し、昭和24年には当時の砂川町、
歌志内町の一部を分割して「上砂川町」が誕生しました。 。
昭和54年に「やまあいの煙」で芥川賞をを得た重兼芳子は昭和2年(1927年3月7日
に三井砂川鉱業所の職員住宅で生まれる。その後福岡に引っ越す
昭和45年「光と影」で直木賞を受賞した渡辺淳一は昭和8年10月24日上砂川で生まれる。
父・鉄次郎は小学校の訓導であり、母・ミドリは歌志内で最も大きな商家の出である。
9歳の時に上砂川を離れる。医学博士。1958年札幌医科大学卒業後、母校の整形外科講師となり、
医療のかたわら小説を執筆。
作品には初期の医学を題材としたものから、歴史、伝記的小説、男と女の本質に迫る恋愛小説と多彩で、
医学的な人間認識をもとに、華麗な現代ロマンを描く作家として、現在文壇の第一線で活躍している。
渡辺淳一文学館  http://www.elleair.co.jp/watanabe/

上砂川炭鉱館
かみすながわ炭鉱館

若山牧水・喜志子夫妻が広く道内で色紙の揮毫をして回った。


「秋すでに蕾をもてる辛夷の木  
雪とくるころ咲くさまいかに
霜はいま雫となりてしたたりつ朝日さす紅葉うつくしきかな」


説明文には「大正15年10月23日夜の路の中を上砂川の紅葉橋を渡り、炭山に入って初めて身にかかる雪を見ながら雪中所見2首を詠む」
滝川
山本有三文学碑 たったひとりしかいない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、うまれてきた かいがないじゃないか。(路傍の石より)
山本有三文学碑 
昭和57年4月15日建立
滝川市新町文化センター前庭
山本有三は明治22年に栃木市の呉服商の長男として生まれ、いくつもの作品を残し、昭和40年には文化勲章を受章されました。菊池寛、芥川龍之介らと文芸家協会を結成し、内務省の検閲を批判した昭和49年に87歳で没し、その墓は栃木市の近龍寺にあります。15歳まで栃木県栃木市で過ごしました。日光例幣使街道沿いにあり、巴波川は江戸から物資を栃木まで運び陸揚げされた所で、当時は相当の賑わいを見せていたようであり、今でも蔵造りの町並みが残されている。路傍の石」をはじめとして、「女の一生」、「真実一路」、「心に太陽を持て」などが、また戯曲「米百俵」などが代表作となっています。実際には北海道とは係わりがなく、たんに友好親善都市だったので栃木市太平山のものと同じものを建てた。

樋口賢治文学碑 春待てるとほきおもひにひとり立つ  
氷の下に満ち来るうしほ

樋口賢治文学碑

滝川市文化センタ−
碑文には滝川市と栃木県との友好親善年を記念して建立。
仁木他喜雄顕彰歌碑
仁木他喜雄(にき・たきお)
この歌は、昭和16年1月、NHKの「国民歌謡」として登場した。明治34(1901)年11月14日、滝川生まれ。「リンゴの唄」「銀座の雀」等を作曲。今に残る数多くの名曲を数多く手がけた。
昭和33(1958)年5月13日没。享年56歳。
仁木他喜雄顕彰歌碑
仁木他喜雄顕彰歌碑 (滝川市東滝川駅前)
作詞 サトウハチロウ 森繁久弥 揮毫
めんこい仔馬 
 
濡れた仔馬のたて髪を
撫でりゃ両手に朝の露
呼べば答えてめんこいぞオーラ
駆けて行こかよ丘の道
ハイドハイドウ丘の道 
   

ボタンを押すと「めんこい仔馬」の歌声が流れる
国木田独歩文学碑
国木田独歩文学碑(滝川公園)
空知川の岸辺
側面 余は今も尚ほ空知川の沿岸を思うと、
あの冷厳なる自然が、余を引きつけるように感ずるのである。何故だろう
石川啄木文学碑
石川啄木文学碑
空知川雪に埋れて鳥も見えず  
岸辺の林に人ひとりゐき

(滝川公園)
国木田独歩文学碑
空知川の岸辺
国木田独歩文学碑
側面 余は今も尚ほ空知川の沿岸を思うと、あの冷厳なる自然が、余を引きつけるように感ずるのである。何故だろう (滝川公園)
国木田独歩文学碑
空知川の岸辺
詩人の国木田独歩は東京専門学校(現、早稲田大学)在学中に、
受洗しキリスト教徒となります。雑誌の編集や、教師を経て、
明治27年24歳の国民新聞記者として従軍し、
没後「愛弟通信」として刊行された
通信記事を送りつづけて好評を得ました。
佐々城信子との愛の巣を「北海道移住のことにつき、
宜しきに導きたまえ」と単身で28年にやってくる。
札幌入りした独歩は札幌農学校教授の新渡戸稲造を訪ね、
土地選定の相談をする。その後、佐々城信子と恋愛結婚しますが、
半年で離婚する。晩年は「窮死」「竹の木戸」などの作品で
自然主義作家として評価されましたが、
明治41年(1908)肺結核のため、36歳で亡くなりました

国木田独歩文学碑
歌志内
国木田独歩文学碑
国木田独歩文学碑
昭和32年9月21日建立
歌志内市 歌志内公園
明治28年9月に歌志内を訪れ、その後明治35年に発表した
「空知川の岸辺」
山林に自由存す
われこの句を吟じ
血のわくを覚ゆ
嗚呼山林に自由存す
いかなればわれ  
山林をみすてし
明治4年7月15日(戸籍により)、本名は哲夫。幼、少年期を、山口県・岩国で過ごした。中学二年で中退の後、上京し、東京専門学校(現・早大)に入学、英語を学ぶ。在学中に、植村正久から洗礼を受け、キリスト教徒となる。 父親の退職から家計を支えるために大分県・佐伯市の鶴谷学館・教頭として赴任するなど各地を転々としたあと再び上京する。日清戦争勃発とともに国民新聞にはいり、従軍記者として「愛弟通信」を連載、注目される。明治28年、退職し、このころ、佐々城信子と知りあい、周囲の反対を押しきって結婚するが、すぐに離婚。明治31年、榎本治と結婚。明治34年文集「武蔵野」で認められる。明治41年、肺結核のため37歳で逝去。墓地は青山墓地内にある
明治41年6月、茅ヶ崎南湖院には身を横たえた独歩がいた。「死とは自覚の滅する事ならずや。(中略)死に近づくに連れて人は生前の自覚を次第に薄らがす者なり。然る以上、死は即ち生存の自覚の停止ならずや。」前年末に自記した一節。


独歩は明治28年9月25日、この地にきた。
北海道に自由な生活を求めて土地を探した
12日間の北海道の滞在だった。
悲別ロマン座
悲別ロマン座(かなしべつロマンざ)は倉本聡原作・脚本によるテレビドラマ「昨日、悲別で」の舞台になった架空の建物。

実際は北海道歌志内市にある旧住友上歌鉱会館。1953年に職員の厚生施設として竣工、もともとは映画上映や舞台公演の会場として使用されていた。往時は東海林太郎をはじめとする、有名歌手の歌謡ショーが行われ、大いに賑わっていた。

以前は、期間限定ながら公開されていたが、現在は閉鎖されている。
(2010年4月撮影)
悲別ロマン座倉本聡
1935年、東京都出身。
脚本家・劇作家・演出家。東京大学文学部美学科卒業後、1959年ニッポン放送入社。1963年に退社後、脚本家として独立。1977年、富良野に移住。1984年から役者やシナリオライターを養成する私塾「富良野塾」を主宰。代表作に「北の国から」「前略おふくろ様」「昨日、悲別で」「ライスカレー」「優しい時間」「風のガーデン」など多数。

高橋揆一郎
高橋揆一郎文学碑
歌志内は市内を西に向かって二分して流れる「ペンケウタシュナイ川」の名に由来しており、アイヌ語で、「砂のたくさんある沢」という意味です。
高橋揆一郎は昭和3年歌志内で生まれた。昭和53年7月14日、『伸予』で道内在住の作家としてはじめて芥川賞を受賞しました。「生まれ育った故郷からは抜け出せない。私の本質は歌志内の風土そのものだ」と語っています。その後も北海道に根を下ろし、さまざまな作品を生み出しています。
 
明治十六年生まれの父菊五郎が妻子を引き連れて北海道を転々としたのち終焉の地 歌志内に落ちついたのは 昭和三年の春のことで 私はその直後に生まれた。ヤマの名は坂炭鉱。
そこが東のどんづまりだからカミをつけて上歌志内である。
つづめて上歌と呼ばれていた。東の空から日々まあたらしい日か゛昇った。歌志内なくして、わが文学なし

                平成五年春    高橋揆一郎
(歌志内市 歌志内公園)
独歩と佐々城信子

独歩は信子にぞっこんとなる。「吾等が愛は永久に変わらじ」と綴ってやまない信念が片時も揺るがないくらいの激情の虜になっていった。「高潔、多感、真摯、無邪気にして且つ同情に富み、学と文とを兼て、恋愛の幽邃、哀深、悲壮にして、春月の如き消息を解する女性」を望む。
独歩は信子の母親の頑強な抵抗にあって、強行手段に出た。独歩は北海道に行って独立自由の生活を営みたかったので、信子を友人とともに先に塩原に発たせ、独歩もこれを追って古町の会津屋で落ち合い、今後の結婚計画を練ることにした。が、そこへ乗りこんだのが信子の父親で、信子はいったんは東京へ戻らざるをえなくなった。
 そこで独歩は単身北海道へ渡る。函館から室蘭へ、さらに空知川に土地を選定するために、しだいに僻地に向かって新天地を探す。いつまでも北海道に来ない信子を放ってもおけず、独歩はやむなく東京へ戻り、「吾が恋愛の前途は殆ど暗黒なり」という状態になる。見かねた蘇峰が骨を折り蘇峰の媒酌で自宅で挙式を挙げることにこぎつける。
こうして逗子での二人の生活が始まった。けれども米と豆と小魚二匹の生活では、大家に育った派手好きの信子は耐え切れない。数カ月後、信子は従妹の相馬黒光のもとに行くと言ったまま、ぷっつり消息を絶ってしまった。やっと捜し当てた信子が病院のベッドで疲労困憊しているのを見て、離婚を余儀なくされる。傷心の独歩が
「自殺、自殺、余は自殺を欲す」と綴る。

深川
北原白秋文学碑 一巳の屯田兵の村ならし 
やゝに夕づくこの眺望(みおろし)を

北原白秋文学碑(深川市丸山公園西展望台)
昭和48年8月1日建立
北原白秋は福岡の“油屋のトンカジョン(大きな坊ちゃん)”と呼ばれていた少年時代。中学伝習館に入学してからは、友人と回覧雑誌『蓬文』などを発行。“白秋”と号しました。こうした中で、家の火災や親友の自殺、さらには一教師との争いで卒業直前に退学するなど、傷心のうちに上京しました白秋は大正10年に佐藤菊子と結婚し、翌年長男隆太郎が誕生。大正14年に長女篁子も生まれ、家庭的安息を得て、遠ざかっていた歌作にもかえりました

大正14年樺太観光の帰りに深川駅に下車した。
医院を開業していた歌人の鬼川俊蔵がいたからである。

3日間滞在した。

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