小樽は北海道の開拓ととって大きな意味を持つ場所である。 小樽は石炭、木材、を中心とする鉱工業、穀物を中心とする農産物取引の役目を担いました 池波正太郎「幕末維新組」 池波は数多い新撰組隊士の中で永倉新八が好きだと書いている。 新八は明治維新後も、樺戸集冶監で剣術の師範をしていたが、晩年は名前も杉村義衛とあらためて小樽で平和に過ごした。 77歳で天寿をまっとうする。 |
塩谷ゴロタの丘の伊藤整文学碑 昭和45年5月23日建立 小樽市塩谷2丁目 ゴロダの丘 海の捨児、私は浪の音を守唄にして眠る、騒がしく絶え間なく、繰り返して語る灰色の年老いた浪、私は涙も涸れた凄愴なその物語を、つぎつぎに聞かされてゐて眠つてしまふ、私は白く崩れる浪の穂を越えて、漂つてゐる捨児だ、私の眺める空には、赤い夕映雲が流れてゆき、そのあとへ星くづが一面に撒きちらされる、ああこの美しい空の下で、海は私を揺り上げて揺り下げて、休むときもない 伊藤整の原点 生まれ育った塩谷。 聖は小樽中学校をへて、1922年、小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)に入学。藤村の詩に感動し、早くから詩作をはじめた。卒業後、新設の市立小樽中学校の英語教諭となるが、昭和2年、借金の抵当に家屋敷を他人の手に渡して小さな借家にうつる。2年後、上京の口実を作るために受験した東京商大(現在の一橋大學)に合格。一年間、教師をつづけて学費をためた後、上京する。以来「故郷としてはこの村のことしか考えられない」というように伊藤文学の原点になっている。この間、第一詩集『雪明かりの路』を自費出版している。胃癌で死去。65歳だった。 |
石川啄木・小樽花園公園内の歌碑 こころよく、我にはたらく仕事あれ、 それを仕遂げて、死なむと思ふ 1907年5月、北海道にわたり、函館で代用教員や地元紙の記者をはじめる、家族を呼び寄せるが、8月15日の大火にあう。小樽、釧路など、道内を転々とした末、1908年、単身上京。金田一京助の世話になる一方、芸者にいれあげ、借金を重ねる 明治20年(1907年)9月末、21歳で小樽日報の創業に参加するため来樽。小樽日報では野口有情と3面記事を担当したが。しかし、100日余りで事務長と喧嘩し呼び寄せた家族を残し釧路へ。「子を負いて、雪の吹きくる停車場に、われを見送りし妻の眉かな」 「小樽に来て始めて植民地精神にあふれた男らしい活動を見た。小樽の人は歩くのではない。突貫するのである。朝から晩まで突貫する小樽人こそ明日の日本を作る気概がある」と啄木は語っていた。 |
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旭展望台の奥の小林多喜二文学碑 「冬が近くなると、ぼくはそのなつかし、い国のことを考えて、深い感動に捉えら、れている そこには、運河と倉庫と税関と、桟橋がある そこで、は人は重っ苦しい、空の下を どれも背、をまげて歩いている、ぼくは何処を歩いて、いようか どの人を、も知っている 赤い、断層を処々に見せて、いる階段のように山、にせり上がっている街、を ぼくはどんなに、愛しているか分からな、い」 昭和40年10月9日建立 旭展望台 碑文は治安維持法で獄中にいた昭和5年、劇作家村山知義の夫人である児童文学者村上壽子にあてた書簡の一節。「事実からいえば小樽が私の本当の故郷」と随筆に書いてある。30年という短い生涯のうち23年間を小樽で住み暮らした。 |
1903年10月13日、秋田県下川沿村(現在の大館市川口)に小林末松の次男として生まれ、四歳の時に小樽に移る。小林家は大きな農家だったが、祖父の代で没落し、伯父の事業の失敗がさらに傷を広げた。その後、伯父は小樽でパン工場を起こして成功し、多喜二の一家を呼びよせ、パン屋の支店をまかせた。1916年、伯父の援助で小樽商業学校に入学。伯父の家に住みこみ、工場の手伝いをしながら通学した。1921年には小樽高等商業学校に進む。1924年、卒業後、北海道拓殖銀行に入行。 自殺直前の芥川竜之介が文芸講演会で道内を回ったのは昭和2年のことである。父の死にあう。その秋、「蕎麦屋」で働く16歳の田口タキを知り、本気になる。翌年、友人と高利貸しから借金して、タキを自由の身にし、自宅に引きとるが、半年ほどで逃げられる。タキとはその後も関係が断続的につづいた。この頃から労働運動に接近し、磯野小作争議では地主側の情報を流したり、港湾労働者の争議ではビラの製作に係わる。上京するが、共産党に資金を提供したとして逮捕と釈放を繰りかえし、8月には治安維持法で豊多摩刑務所に下獄する。1932年、奈良に志賀直哉を訪ねた直後、宮本顕治等とともに地下活動にはいる。1933年2月20日、特高警察に逮捕され、築地署で拷問中、急死。10時間を越える拷問の末・数回目の失神の後に息を引きとる。その遺体は「頭のてっぺんから足の指のつま先」に至るまで無傷だったところはなかった。もちろん内臓もまた例外ではなかった。 本郷新の設計で本が見開き。青年労働者胸像。多喜二のレリーフ。 |
小樽は、北海道では函館についで古くから開かれた港町であり、かつて北海道経済の窓口としてたいへんにぎわいました。
小樽高商でともに学び青春時代を過ごしながら対照的な、二人の作家、プロレタア文学の小林多喜二、
知識人文学の伊藤整と、日本独自の発展を遂げた〈私小説〉の作家、岡田三郎。
北海道漂泊の途上足をとどめた石川啄木、北方の叙情を骨太にうたいあげた小田觀螢、
庶民生活の哀歓を素朴に描いた口語短歌の並木凡平、八田尚之、違星北斗、吉田一穂がいる
★岡田三郎 明治23年松前に生まれる。松前小学校を卒業した彼は小樽中学校に入学する。 三郎が2代目の小樽区長をつとめた伯父の家に住んだのは学校を卒業する丸5年・19歳までである。 翌年洋画家を目指して上京。 太平洋洋画家研究所に入ったが父の反対で働きながら予備校に入るが 敗戦で小樽税務署に勤める。画家志望の後早大文科入学、在学中『涯なき路』『影』を発表して文壇にデビュー。 大正8年卒業後、博文館で「文章世界」の編集に従事、のちフランスに遊学する。 震災直前に帰朝し、軽妙な、ひねりのきいた短編小説「コント」を紹介、提唱した。 「小樽と僕」 小樽は僕の第二の故郷である。 僕は第一の故郷になんにも残していない。 土地もない。家もない。 第一の故郷というのは福山(松前)のことである。 しかし第二の故郷にも僕のものといっては何もない。 が、第二の故郷には僕にとってなによりも貴いものが残されている。 青年の夢が残されている。 |
★石原慎太郎。 昭和7年に逗子で生まれた石原慎太郎は、父親が山下汽船に勤めていた関係で 5歳のときに小樽に転居。稲穂小学校に入学し、ずっと級長を通した。足掛け5年まで小樽で暮らす。 弟の石原裕次郎を書いた「弟」には 私がものかきとして世にでたころ、当時盛名をはせていた伊藤整氏が、氏は私の発見者の一人でもあったが 同じ大学の先輩であり、同じ小樽に係わり深い先達としての気安さで、君の文学は生まれた町の神戸と、 同じ港町の小樽の影響を感じさせるといったことがある。石原裕次郎記念館 http://www.yujiro-kinenkan.com/ |
八田尚之文学碑鰊御殿敷地内 |
八田尚之文学碑 昭和41年8月25日建立 小樽市祝津 鰊御殿敷地 八田は1905年に小樽に生まれる。 性格は内気で作文、国語がずばぬけて良かった。 在学中、、友人たちと同人雑誌を出し、半玉と清純な恋を結び、卒業試験を受けなくて落第・上京して法政大学に入る。多数の映画シナリオを書く。 「碑文「がんぜ」 |
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田島 隆宏 小樽市堺町 メルヘン交差点 |
人生という旅 悲しみが多ければ そんなに悲しいとは思わない 苦しみが多ければ そんなに苦しいとは思わない 人は誰だってひとつやふたつ いや それ以上の悲しみや苦しみを持ちながら 生きているのかもしれない 悲しみが多ければ それだけ人を思いやれる 苦しみが多ければ それだけ人に優しくできる '' 人 ,,っていう字は互いに助け合っている ひとりでは誰だって生きていけない だから人は誰かを求めてながら生きている それが人生という旅なのかもしれない ニックネーム“オタさん”は割り箸でスイッチ操作をしての読書です。 私は、生まれつきの障害者で両手両足が使えません。使えところは口だけです。その使える口で撮った作品です。 私は思います。手で写真が撮れて、何で口で写真が撮れないのだろうと。 こんなポリシーから写真が始まりました。
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柳絮(りゅうじょ)とび我が街に夏来にけり 三ツ谷謡村(みつやようそん )文学碑 (小樽市 水天宮) 明治37年12月4日〜昭和53年10月14日 謡村は本名弘郷(ひろさと)。勇払郡に生まれ、札幌北海中学校を卒業後、早稲田大学等に学ぶ。病気のため大学を中退し帰道後小樽市に移住。この頃から俳句を手掛け、昭和8年に「ホトトギス」に初入選。昭和13年に小樽玉藻句会を設立、また北海俳句会(後の小樽ホトトギス会)の主宰を引き継いだ 碑文は謡村自筆 |
北海浜節民謡碑 春は春はソ−ラン ヤン衆の声も 遠く呼ぶよぶ黄金の波は せめて波風おだやかに サアサ今日も船は行く行く (小樽市祝津 祝津展望台) |
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子を負ひて雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな 石川啄木文学碑 小樽市 小樽駅 同駅(旧中央小樽駅)は、啄木の義兄が駅長を務め、啄木が妻子を残して釧路へ旅立った場所でもある。高さ約二・五メートルの碑には「子を負ひて 雪の吹き入る停車場に われ見送りし妻の眉かな」の歌を刻んだ。 「かなしきは小樽の町よ 歌ふことなき人人の 声の荒さよ」という作品の影響で、小樽の啄木人気はいまひとつと言われるが、歌碑建立は市民らの協賛金約百四十万円で実現した。 |
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「赤い靴・親子の像」(小樽運河公園) ボタンを押すと赤い靴のメロディーが流れる。 赤い靴 はいてた 女の子 異人さんに つれられて いっちゃった 作詞 野口雨情 「きみ」ちゃんは、は重い結核のため 横浜から米国に渡れず、東京の孤児院に託されわずか9歳 でこの世を去った。 |
「石狩挽歌」 (小樽市祝津・青山別邸内) 海猫が鳴くから ニシンが来ると 赤い筒袖の やん衆がさわぐ 雪に埋れた番屋の隅で わたしゃ夜通し飯を炊く (作詞 なかにし礼) 「 |
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かなしきは小樽の町よ 歌うことなき人々の声の荒さよ 石川 啄木文学碑 (小樽市 水天宮 境内) 「小樽に来て初めて植民地精神に溢れた 男らしい活動を見た。小樽の人は歩くのではない、突貫するのである。朝から晩まで突貫する小樽人こそ明日の日本をつくる気迫がある。」と礼讃したとある。 |
忍路高島およびもないが せめて歌棄磯谷まで (小樽市祝津・祝津展望台) |
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山上の旗 実は久しぶりに、傷だらけの心を、ふるさとの海の紺碧に曝す。水平線を弓なりにたわませ、おれはつがえられた一本の矢、張りつめた弦の痛さに立つ。 いま悲しみはその深さだけ深い夢に変る。 おれは満ちてゆく、潮騒にかもめらの叫びに、船唄に、夕凪に海のように。しかし満ち足りてはならぬのだ。風よ来い。北斗七星の凍れる座からまっしぐらにおれの拡げたもろ腕の下に来い。 きびしさに引き裂かれる旗におれをしろ。自らを燃やしつくし透明をめざす陽炎、山上の旗におれをしろ。 1917年4月15日 - 2004年3月30日)は、整形外科医、元札幌医科大学教授、詩人。 北海道小樽市出身。北海道帝国大学医学部卒業後、東京帝国大学医学部を経て、札幌医科大学教授。北海道の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。医師から作家に転向した渡辺淳一は、教え子のひとりである。北大在学中から詩人・金子光晴に師事して詩作を重ね、三四年(昭和九年)ごろから「北大文芸」などに作品を発表。 氏の作詞した札幌オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」はオリンピックが終了して30年を経ても時々CMソングに流れるなど、多くの人に愛されている。 |
河邨文一郎(かわむらぶんいちろう )文学碑 (小樽市水天宮境内) |
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(小樽市堺町 多喜二寿司店前) 明治36年10月13日〜昭和8年2月20日 小林多喜二は秋田県生まれ、明治40年小樽に移住。伯父の家に住み込みパン工場の手伝いをしながら庁立小樽商業学校に通った。大正10年小樽高等商業学校に入学。小樽高商を卒業後、北海道拓殖銀行に就職。この頃市内の有志とともに同人誌「クラテル」を発行した。社会科学を学びはじめ、近代資本主義社会の諸問題に関心を抱き、港湾労働の闘争の支援等にかかわるようになる。昭和4年「蟹工船」「不在地主」を発表。同年拓銀を依願退職、翌年春上京した。6年湯治非合法下にあった日本共産党に入党。極めて困難な創造活動を続けていたが、8年2月築地暑特高に逮捕、拷問を受け死亡した。小樽を舞台にした作品は「不在地主」のほか「1928年3月15日」「転形期の人々」など多数。 |
小林多喜二文学碑 あなたは北海道の雪を知っているだろうか それは硝子屑のように いたくて細かくてサラサラと乾いている雪道は足の下でキュンキュン もののわれるような音をたてるそして雪は塩酸に似て それよりはもっと不思議な匂いをおくる 1930年 書簡集より 小林多喜二 |
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小田観蛍文学碑 距離感のちかき銀河をあふぎをり 身は北くにに住みふさふらし (旭展望台より1q山中) 明治19年11月7日〜昭和48年1月1日 本名哲弥。岩手県宇部村(現久慈市)に生まれ、明治33年両親とともに小樽に移住。奥沢小学校の代用教員となり、昭和26年短期大学教授にいたる50年余の教員生活を送る。 明治35年頃より和歌、美文等を創作し、「文章世界」に投稿を始める。明治42年には富良野の小学校に勤務。70年に及ぶ永井歌人生活に対して、日本歌人クラブ名誉会員、第一回北海道文化賞、北海道新聞文化賞受賞、第一回北海道小樽市功労者(教育文化)表彰。主著に歌集「隠り沼(こもりぬま)」「暁鷹」「暁白」「天象」「暁暉」「小田觀螢全歌集」など。碑歌は「暁白」所収、觀螢自信の文字が刻まれた。 |
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作詞 杉 紀彦 作曲 弦 哲也 唄 石原 裕次郎 |
石原裕次郎 おれの小樽音楽碑 平成18年11月三日建立 1夕陽とかした 海に染められて 子供二人が 家路を駆けて行く かえらぬ昔の 夢をみるような おれの小樽は 港町 おふくろ おれの名 呼んでくれ 2 遠い季節を 語る運河には 釣りを教えた 親父を映す影 レンガの倉庫は 変わり果てたまま おれの小樽の としつきを 辿れば こころに 雪が降る 3 時がすぎても 胸がいたむのは 風の冷たさ 恋したあたたかさ さすらい流れて ふと立ち止まる おれの小樽は 坂の町 別れた あの日が 見えかくれ 神戸に生まれた裕次郎は父親の転勤で小樽に移り、 小学生までの6年間を過ごした。裕次郎は生前「小樽は第二の故郷」 と語っています。 |
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小樽の女よ 音楽碑 作詞:池田充男、作曲:鶴岡雅義、 唄:三条正人〈東京ロマンチカ〉 |
1 逢いたい気持ちが ままならぬ 北国の街は つめたく遠い 粉雪まい散る 小樽の駅に ああ ひとり残して 来たけれど 忘れはしない 愛する人よ 2 二人で歩いた 塩谷(しおや)の浜辺 偲(しの)べば懐かし 古代の文字よ 悲しい別れを ふたりで泣いた ああ 白い小指の つめたさが この手の中に いまでも残る 3 小樽は寒かろ 東京も こんなにしばれる 星空だから 語り明かした 吹雪の夜を ああ 思い出してる 僕だから かならずいくよ 待ってておくれ |