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北海道の文学碑

渡島半島−函館から大沼公園・八雲・長万部まで

国道5号線。JR函館本線をゆく
明治37年(1904年)10月15日に北海道鉄道線が開通。

巌谷小波文学碑
百二十六島晴れて水の秋

巌谷小波 (いわやさざなみ)文学碑

七飯町・大沼公園・昭和寺)
松田撫松(まつだぶしょう)文学碑
下冷えやふと目覚むれば夜の雨

松田撫松(まつだぶしょう)文学碑
七飯町・大沼公園・昭和寺湖畔傍
箱館戦争鷲の木戦争供養
高浜虚子・阿部慧月文学碑 七飯町 大沼公園

駒ヶ岳聳えてここに沼の春 高浜虚子
島々の若葉の色のみな違ふ 阿部慧月


高浜 虚子(1874年(明治7年)2月22日 - 1959年(昭和34年)4月8日)本名・高濱清(たかはま きよし)。
明治21年(1888年) 伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学。1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。明治24年(1891年)子規より本名の清から「虚子」の号を受けた。
作詞家の新井満さんは、17年ほど前に函館の友人の紹介で別荘を購入されたそうです。それから毎年家族でここ大沼を訪れ、この静かな大自然の中で過ごすようになったそうです。新井さんは普通のモニュメントや記念碑は自己主張が強すぎて美しい景観を阻害するものが多いが、この千の風モニュメントは控えめでとても良い。
 大沼の景観を損なうこともなく、碑の上に立っても寝転んでもいいめずらしいモニュメントだと話されていました。
http://www.town.nanae.hokkaido.jp/arai_man/002.htmlより引用しました。
私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に
千の風になって
あの大きな空を
吹きわたっています

「千の風になって」モニュメント(通称「千の風モニュメント」)
七飯町大沼国定公園の湖畔、西大島の北東に設置されました。 平成19年11月15日
「千の風モニュメント」
「千の風モニュメント」
八雲
山越内関所跡 山越内関所跡
日本最北の関所で1801年〜1861年まで東蝦夷地との関門であった。

八雲町は「我八雲はこの所より開かる」
今金町
萩野吟子文学碑
雲はらふ風につけてもこの頃は
としべつ原の朝夕の空
萩野吟子文学碑
 今金町神岡 インマヌエルの丘
萩野吟子
インマヌエル教会
瀬棚町
萩野吟子公園
瀬棚本町・萩野吟子公園
医師免許を取得した日本で最初の女性、
荻野吟子(おぎのぎんこ)
萩野吟子文学碑
明治27年、東京での開業医の生活を捨て、理想郷建設の夢を追って14歳年下の夫、志方之善(しかたゆきよし・当時26歳)とともにここ瀬棚の地を目指しました。志方の事業は失敗する。「気の遠くなるような樹海の先に青い海が輝いている。一年ぶりにみる日本海であった。樹海の間に見え隠れしながら白くうねる川がある。利別川であった。それが海に注ぐ辺りの小さな平地が瀬棚であった。」
やがて夫に若くして先立たれ(肺炎)、北辺の地にただ一人残されたあとも彼女はこの町で医師として、教育者として、また、女性の地位向上のための活動家として止むことなく活躍を続けた。伝えられる彼女の人となりは、気丈さと知性を備えた美貌のロマンチストであった、といいます。
体力に自信を失い東京に帰り、養女に看取られながら62歳の生涯を閉じた。
更科源蔵

更科源蔵
三本杉
三本杉岩
左の写真は海難慰霊碑
海を愛し海に生き海に眠った人は今
石の姿になって波の音を聞いている。
落日を浴びて静かに
いつの日か故郷の掛橋の
基石になるのを夢みながら・・(更科源蔵)

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