羊蹄山麓−ニセコ・留寿都・真狩・倶知安まで
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有島記念館 |
有島記念館は、大正11年、ニセコの地で画期的な農場解放を実践した有島武郎に謝恩の意味を込め、また文学をはじめ、その多彩な業績を広く紹介するため、昭和53年、農場事務所跡地近くに開館されました。 館内では、写真、書簡、書、絵画、初版本などを展示し、有島武郎の生涯と文学、農場の解放にいたる軌跡を紹介しています。 有島武郎の作品の中の「或る女のグリンプス」(のちの『或る女』前編)の冒頭の三章はここの農場事務所の部屋で書かれたものであり、彼の出世作「カインの末裔」が作中人物、舞台ともにこの農場を素材としていることはよく知られている所です。その他、木田金次郎との8年ぶりの農場事務所での再会が名作『生まれ出づる悩み』を生み、また随想「秋」が書かれ、最晩年の作品「親子」では、農場所有を巡って対立する父と子が描かれています。 有島記念館は、大正11年、ニセコの地で画期的な農場解放を実践した有島武郎に謝恩の意味を込め、また文学をはじめ、その多彩な業績を広く紹介するため、昭和53年、農場事務所跡地近くに開館されました。 館内では、写真、書簡、書、絵画、初版本などを展示し、有島武郎の生涯と文学、農場の解放にいたる軌跡を紹介しています。有島記念館。http://www.town.niseko.hokkaido.jp/arishima/ |
ニセコ町 有島記念館前庭 |
有島武郎文学碑 「カインの末裔」 文学碑 長い影を地にひいて、痩馬の手綱を取りながら 彼は黙りこくって歩いた。 大きな汚ない風呂敷包と一緒に、章魚のように 頭ばかり大きい赤坊をおぶつた彼の妻は、少し 跛脚をひきながら三、四間も離れて、その跡から とぼとぼとついて行った。 北海道の冬は空まで逼っていた。 以下略 有島武郎著「カインの末裔」冒頭より 札幌農学校卒業。在学中、内村鑑三の指導の下に熱心なクリスチャンとなる。1903年アメリカに留学、歴史と経済学を学ぶうちに次第に信仰に疑問を抱き、文学、特にホイットマンを愛読。また社会主義にクロポトキンの著書を愛読し、これらから強い影響を受けた。ヨーロッパを巡り1907年帰国。翌年母校教師に就任し札幌に移る。札幌では社会主義研究会や絵の同好会の中心的存在としても活躍したが、信仰への懐疑が深まり、1911年信仰を棄て教会から離れた。1915年(大正4年)には教職をも辞して帰京。妻の看病と育児のかたわら小説家としての仕事を進めた。武者小路実篤らによって創刊された雑誌「白樺」同人としてすでに「二つの道」「かんかん虫」「或る女のグリンプス」等を発表していたが、帰京後は「宣言」を連載。1916年妻と父を失い、〈家〉の束縛から解放されたのを転機に本格的に作家生活に入る。戯曲「死と其の前後」、小説「カインの末裔」「生れいづる悩み」等の名作や、評論「惜しみなく愛は奪ふ」を次々と書き、1919年「或る女」を発表した。また北海道の有島農場の解放、社会主義者たちとの交流など重要な役割を果たしたが、1923年「宣言一つ」を発表して軽井沢別荘で波多野秋子と情死した。 |
(父親と農場に行くときに通った道) |
最晩年の作品「親子」では、農場所有を巡って対立する父と子が描かれている。 「農場の事務所に達するには、およそ一丁ほどの険しい赤土の坂を登らなければならない」「一行はまた歩き出した。それからは坂道はいくらもなくなって、すぐに広々とした台地に出た。そこからずっとマッカリヌプリという山の麓にかけて農場は広がっているのだ。なだらかに高低のある畑地の向こうにマッカリヌプリの規則正しい山の姿が一つ聳えて、その頂きに近い西の面だけが、かすかに日の光を照り返して赤ずんでいた」 (親子坂より) |
有島武郎・農場解放記念碑 大正13年9月12日建立 総費用 「参百捨六円四捨参銭) 訳150センチの石垣の上に250センチの碑が乗っている。 (ここから見る羊蹄山はすばらしいらしいが残念だが雨だった。) 1922年7月、彼が相続した狩太(現ニセコ町)の有島農場を解放するため小作人を集め、無償解放することを宣言する 「この土地のすべてを諸君に無償で譲渡します。しかし、それは諸君の個々に譲るのではなく、諸君が合同してこの全体を共有するようにお願いするのです。その理由は、生産の大本となる空気、水、土地という類いのものは人類が全体で使用し、人類全体に役立つよう仕向けられねばならず、一個人の利益によって私有されるべきものでないからです。諸君がこの土地に責任を感じ、助け合って生産を計り、周囲の状況を変化する結果となることを祈ります」 1923年6月、有島は軽井沢の別荘で波多野秋子とともに自殺します。世間一般では愛の絶頂で死んだ情死という見方をしていますが、自分の理想によって実践した農場解放が思わぬ方向を見せたことに対する苦しみなどもあった。 「我死せば、印許りの石を後方羊蹄山の麓に立て、 我亡骸を其下に埋めよ」 |
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吉川銀之丞文学碑・記念碑 有島記念館の歴史は、これを遡ること30年前、農場解放後の農団が解体された1948年(昭和23年)に旧有島農場、旧共生農団の事務所跡を農場管理人吉川銀之丞ら有島武郎謝恩会(同年結成された)の手によって「有島記念館」としたことに始まり、私財を投げ打って理想社会の実現を願っていた有島の心を体し、それを忠実に、そして勤勉に実行に移していった。 |
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留寿都 「赤い靴ときみちゃん」 | |
虻田郡留寿都村字留寿都68番地4「赤い靴公園」 留寿都役場となり 明治の頃、女の子の母親がこの村に開拓に入り、開拓生活の苦労を案じて養女に出した娘への思いを野口雨情に告げ、童謡「赤い靴」が生まれたことによる。子が母を慕い、母が子を思う優しい心と、先人らの開拓の苦労を忘れないようにと公園を平成3年に造成した。 |
赤い靴のその後 岩崎きみは静岡県で明治35年に生まれた。私生児だった。 母親のかよは世間の目に耐えられず、二歳のきみを連れて函館の駅前の土産店に勤めた。 母親に再婚の話がもちあがり、かよは夫の鈴木志郎と開拓農場 (現北海道、留寿都村)に入植することになります。 かよはやむなく三歳のきみちゃんをアメリカ人宣教師チャールス・ヒュエット夫妻の養女に出します。 かよと鈴木志郎は開拓農場で懸命に働きますが、静岡から呼んだかよの弟「辰蔵」を苛酷な労働の中で亡くし、 また、開拓小屋の火事など努力の甲斐なく失意のうちに札幌に引き上げます。 鈴木志郎は北鳴新報という小さな新聞社に職を見つけ、同じ頃この新聞社に勤めていた野口雨情と親交を持つようになります。一軒やを二つの家族で借りて、同じ屋根の下に暮らしていた。雨情は明治41年に長女を生後わずか7日で亡くしています。 母かよは、死ぬまできみちゃんはヒュエット夫妻と幸せに元気に暮らしていると信じていました。 しかしヒュエット夫妻が任務を終え帰国しようとしたとき、きみちゃんは不幸にも当時不治の病といわれた結核に冒され、 身体の衰弱がひどく長い船旅が出来ず、東京のメソジスト系の教会の孤児院に預けられた。 ここは恵まれない女の子を収容する場所。一人寂しく幸薄い9歳の生涯を閉じたのは、明治44年9月15日の夜でした。 |
真狩村 | |
八州秀章音楽碑 (やしま・ひであき、1915−85年) 真狩村 羊蹄山自然公園内 ふるさと館横 |
あざみの歌 山には山の 愁(うれ)いあり 海には海の 悲しみや ましてこころの 花ぞのに 咲しあざみの 花ならば 高嶺(たかね)の百合の それよりも 秘めたる夢を ひとすじに くれない燃ゆる その姿 あざみに深き わが想い 八洲は(本名・鈴木義光)は、真狩村泉地区の農家の二男として生まれた。いったん家業を手伝ったが、馬車の事故で大けがをしたのを機に作曲家を目指し、21歳で上京。「さくら貝の歌」(39年)が認められ、山田耕筰に師事した。その後も「あざみの歌」(49年)「毬藻(マリモ)の歌」(53年)などのヒット曲を連発。開道百年記念の交響詩「開拓者」(68年)から、道内各地の校歌に至るまで、三千曲を超える「八洲メロディー」を世に送り出した。 |
「真狩村が生んだ細川たかしは、歌謡界の第一人者のみ ならず故郷真狩の名や特産物を全国にひろめ多大の貢献 があった。真狩村開基百年を記念し栄誉を讃えると」ある |
細川たかし記念像 (真狩村 河川公園 ) 「こころのこり」「北酒場」「浪花節だよ人生は」 「矢切の渡し」などの音楽が流れるようになっている。 【本名】細川 貴志 【生年月日】 昭和25年6月15日 |
倶知安町 |
青き山なり ニセコの山は 吾心また青々 心涼しむ 林芙美子文学碑 倶知安町 ひらふ高原中央公園 女一人・31歳の新進女流作家が倶知安駅に落りたった。 彼女は南河旅館に3泊し、河合倶知安郵便局長らに案内されて 周辺の農場や半月湖などに遊び、単独で岩内方面などにも 足を踏みいれている。 河合倶知安郵便局長の求めに応じて上句の色紙を贈った。 「作家林芙美子が倶知安を訪れたのは昭和9年5月である。 ニセコの風光が大変気に入りその印象を色紙に残して札幌に向かった。 のち倶知安を舞台に「七つの燈」「田園日記」などの小説を書いている |
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天津風胡沙吹き払へしりべしの 千代ふる雪に照る日影見む 松浦武四郎文学碑 昭和39年11月建立・京極温泉庭 京極温泉の噴出し公園に行く途中にある。 「安政5年2月松浦武四郎が氷雪の中を虻田から札幌へ踏査する途中、後方羊蹄山を仰いで詠じた」とある。 |
馬鈴薯の花咲く頃となりにけり 君もこの花を好きたまふらむ 石川啄木文学碑 平成10年10月・倶知安旭が丘公園中央広場(町営プ−ル) 「「君」とは同僚の橘智恵子をさしている 倶知安は馬鈴薯の町である。 馬鈴薯の花を愛し啄木に心を寄せる人たちがふるさとにつながる若き日を偲ぶよすがにと、この歌碑を建立した」とある。 |
真夜中の 倶知安駅に下りゆきし 女の鬢の古き痍(きず)あと 石川啄木文学碑 平成6年8月建立 倶知安駅前公園 |
添碑 石川啄木が函館から小樽へ向かう 列車で、真夜中の倶知安駅を通った のは明治四十三年(1907)九月十四日の 午前一時過ぎである。 啄木はこの時の印象を短歌の読 んで、歌集「一握の砂」(明治四十三年 十二月)に収めた。 鬢(頭の左右側面の髪)に古い痍あ とのある女は、実景であったか、それ とも真夜中の倶知安駅のイメージにふさわしいものとして、あるいは職を求めて旅するみずからの心象として、創り出したものであったかは、定かではない。 当時の倶知安村は、開墾が始って 十五年たったばかりであった。 駅前通りはようやく開通したものの、 電灯はともっていなかった。 この夜駅を降りた人たちの見上 げた空に、王者の象徴・農耕の星 として親しまれてきた(すばる)が輝 くまでには、まだすこしの間があった。 |
夕べせまる防雪林のうすやみに ましろくたかく山うどの花 九条武子文学碑 1926年8月札幌への列車で倶知安通過の車中で詠んだ。倶知安町北5条東2丁目 東林寺境内 九条武子 九條武子(くじょう・たけこ)は、1887(明治20)年、西本願寺の法主・大谷光尊の次女として生まれた。男爵・九條良致と結婚した。佐々木信綱が主宰する竹柏会に入会して、歌誌「心の花」に作品が掲載された。京都女子高等専門学校(後の京都女子大学)の創設に携わった。また、仏教婦人会本部長として、社会事業の分野でも活躍した。生前に出版された歌集に『金鈴』がある。1928(昭和3)年、医療ボランティアをしていたときの無理がもとで病没した。 「北海道の旅」より 蝦夷冨士と呼ばれている羊蹄山が、おぐらくなって行く空に、けれどもはっきりと重々しい姿して、大地のおごそかな威力をもって座っているのが近くに見えて、6時ごろ倶知安駅についた。駅員のなまりの多い呼び方に、旅の人はみなドッとみな笑った。いままで退屈と疲れとで滞っていたものが、一時に洗い流されたような笑い声、そして大方ホ−ムに降りて行った。(大正15年8月) |