夏目漱石 東京(2009.08.06)
碑文 夏目漱石は慶応3年(1867年)1月5日(陽暦2月9日)江戸牛込馬場下横町(新宿区喜久井町1)名主夏目小兵衛直克の末子として生まれ明治の教育者文豪として不滅の業績を残し、大正5年(1916年)12月9日新宿区早稲田南町7において没す生誕百年にあたり漱石の偉業を称えてその生誕の地にこの碑を建つ 昭和41年2月9日 夏目漱石生誕百年記念 新宿区建之 |
夏目漱石誕生の地跡 (東京都新宿区喜久井町1番地) 文豪夏目漱石(1867〜1916)は、夏目小兵衛直克と千枝夫妻の五男三女の末子としてこの地に生れた。 夏目家は、牛込馬場下横町周辺の11ヶ町をまとめる名主で、その勢力は大きく、喜久井町の名は夏目家の家紋「井桁に菊」に因み、また夏目坂は直克が命名したものだという。 漱石は生後まもなく四谷の古道具屋に里子に出されたが、すぐに生家にもどり、2歳の11月に再び内藤新宿の名主塩原昌之助の養子となり、22歳のとき夏目家に復籍している。 なお、この地での幼少時代のことは大正4年に書かれた随筆「硝子戸の中」に詳述されている。 また、この記念碑は昭和41年に漱石生誕百年を記念して建立されたもので、文字は漱石の弟子安倍能成の筆になる。 平成3年11月 東京都新宿区教育委員会 漱石の生まれた時代は幕末の混乱期で徳川慶喜が大政を奉還し 上野の山ではすさまじい戦闘が行われていた。 漱石の少年期は家庭的には恵まれないもので、漱石は後年、森田草平に「俺は六人の末子で、両親から余計物、要らぬ子として扱われたものだ」と言っている。(資料室でもらったパンフレットより) |
夏目 漱石(なつめ そうせき、慶応3年1月5日(1867年2月9日) - 大正5年(1916年)12月9日) 本名、金之助(きんのすけ)。『吾輩は猫である』『こゝろ』などの作品で広く知られる、森鴎外と並ぶ明治・大正時代の文豪である。江戸の牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)出身。俳号は愚陀仏。 大学時代に正岡子規と出会い、俳句を学ぶ。帝国大学(後に東京帝国大学)英文科卒業後、松山で愛媛県尋常中学教師、熊本で五高教授などを務めた後、イギリスへ留学。帰国後、東京帝大講師として英文学を講じながら、「吾輩は猫である」を雑誌『ホトトギス』に発表。これが評判になり「坊っちゃん」「倫敦塔」などを書く。 その後朝日新聞社に入社し、「虞美人草」「三四郎」などを掲載。当初は余裕派と呼ばれた。 「修善寺の大患」後は、『行人』『こゝろ』『硝子戸の中』などを執筆。「則天去私」(そくてんきょし)の境地に達したといわれる。晩年は胃潰瘍に悩まされ、「明暗」が絶筆となった。 昭和59年(1984年)から平成16年(2004年)まで発行された日本銀行券D千円券に肖像が採用された。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%8F%E7%9B%AE%E6%BC%B1%E7%9F%B3 |
夏目坂は父、直克が命名 |
東京都新宿区早稲田南町 漱石公園(漱石山房跡) |
夏目漱石の胸像 |
夏目漱石終焉の地 所在地 新宿区早稲田南町7番地 指定年月日 昭和61年10月3日 この漱石公園一帯は、文豪夏目漱石が晩年の明治40年9月29日から大正5年12月9日に死去するまで住んだところで「漱石山房」と呼んでいた。 漱石はここで「坑夫」「三四郎」「それから」「門」などの代表作を発表し、「明暗」執筆の半ばに世を去った。 漱石死去当日の様子は内田百聞の「漱石先生臨終記」に詳述されている。 また、漱石山房の様子は、漱石の「文士の生活」や、芥川龍之介の「漱石山房の秋」「漱石山房の冬」(ともに「東京小品」の中)などに克明に書かれている。 この石塔は俗称「猫塚」と呼ばれているが、これは「吾輩は猫である」の猫の墓ではなく、漱石の没後遺族が家で飼っていた犬や猫、小鳥の供養のために建てたもので、昭和28年の漱石の命日に、ここに復元されたものである。 平成3年11月 東京都新宿区教育委員会 |
最期の言葉は、寝間着の胸をはだけながら叫んだ「ここにみずをかけてくれ、死ぬと困るから」であったという。 漱石の死の翌日、遺体は東京帝国大学医学部解剖室において長與又郎によって解剖される。その際に摘出された脳と胃は寄贈された。脳は、現在もエタノールに漬けられた状態で東京大学医学部に保管されている。重さは1,425グラムであった。戒名は文献院古道漱石居士。墓所は東京都豊島区南池袋の雑司ヶ谷霊園。 これは資料室でもらったパンフレットです。 これによると最期の願いは「何か喰いたい」 与えられた一匙のぶどう酒に「うまい」という言葉を遺した。 (資料室でもらったパンフレットより) |
(資料室でもらったパンフレットより)
身長 158・8cm | 体重 53・3kg. |
吾輩は猫である | 最初は「猫伝」 名づけ役は高浜虚子 英語教師・苦沙弥(くしゃみ)先生の飼い猫の視点から、飼い主一家やそこに集まる人々の人間関係 |
坊ちゃん | 「作家として立ちたいと思い始める」 正直で新米教師坊ちゃんが、赴任先の四国松山の中学校で生徒達のいたずらや、陰険な策略に巻き込まれながらも 竹を割ったような性格でぶつかっていく様子を描いた。 |
虞美人草 | 新聞デビュー 首相の招待も断って執筆に没頭 我意と虚栄をつらぬくためにはすべてを犠牲にして悔いることを悔いることを知らぬ女性藤尾。 ヒロインの自滅の悲劇 |
硝子戸の中 | 書斎から見えてきたもの。 早稲田南町の漱石山房で起こるできごと、記憶の底に沈んでいる体験や回想を書き留めた |
こゝろ | 死の淵からの生還。末娘の死 かって親友を裏切って死においやり恋人を得た先生。その不思議な魅力に取り付かれた学生の目から 孤独な明治の知識人の内面を描いた。 |
草枕 | 俗界を離れ美の幻想に生きようとする青年が結局、芸術は人間社会の道徳や論理と切り離しては考えられない。 「智に働けば角がたつ。情に棹させば窮屈だ」の書き出し。 |
夢十夜 | 「こんな夢を見た」で始まるこの作品は、それぞれにロマンチックで幻想的な短編。 |
三四郎 | 「それから」「門」に続く三部作の一作目。熊本から大学入試のために上京した三四郎の「青春小説」 |
それから | 主人公代助は30歳になっても定職につかず、仕送りで裕福な生活を送る。この彼がかって自ら友人に引き合わせた 三千代との愛を貫こうと、今は人妻になっている三千代と共に生きる決意をする。 |
門 | 妻と二人で崖下の家に暮らす薄給の宗助。ある日、みてもらった易者に「過去の罪」を指摘されて驚く。 宗助の妻はかっては親友の妻だった。 |
道草 | 漱石の唯一の自伝的小説。「自分のもっとも卑しいところ、面目を失するようなところ」を隠さずにあらわした。 |
明暗 | 主人公津田とその妻お延を軸に、人間のエゴイズムの問題。 漱石の死によって未完に終った。 |