港のある町・室蘭 |
室蘭民芸協会の招きで昭和31年・32年に棟方夫妻は 室蘭を訪れています。 測量山山頂から港を眺めた風景を刻んだ版画が、 日本で最初の棟方志功版画碑です。 |
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ここだけは鉄の唸りも聞こえない 電信浜の波のささやき 並木凡平文学碑 室蘭常盤町 常磐公園 本名篠原三郎・明治24年札幌に生まれる。 大正末期から昭和初期にかけて、口語短歌全盛時代を築き、 昭和14年北海日日新聞に招かれ小樽から室蘭へ移住。 |
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室蘭港が奥深く廣く入り込んだ、その太平洋への湾口に 大黒島が栓をしてゐる。 雪は、北海道の全土を蔽ふて地面から、雲までの 厚さで横に降りまくった。(海に生くる人々より) 葉山嘉樹文学碑 昭和61年10月18日建立 室蘭市入江町 入江運動公園 明治27年に福岡に生まれる。 日本プロレタリア文学運動の初期を代表する作家で 大正5年・22歳の時、横浜〜室蘭間の石炭運搬船に 下級船員として乗り込んだ 葉山は、室蘭港を舞台とした名作「海に生くる人々」 を書く。 堂々たる4トンの有珠安山岩の碑は港を背景にし、 「この文学碑は、港と石炭にたずさわった人々の 記念に建てられたもの」と書かれている。 |
葉山嘉樹文学碑 |
八木義徳文学碑 室蘭測量山に行く途中の道路に建っています。 |
八木義徳は1911(明治44)年10月21日、北海道室蘭市大町 (現・中央町)33番地で室蘭町立病院長である父田中好治、母セイ芸者だった)の次男として生まれました。(東大出の父は愛人をつくり3人の男のこと一人の女の子を産む)正妻は別にいた 測量山、この二百メートルほどの高さをもった小さな山の頂上は、中学時代の史郎にとってはもの思う場所≠セった。 「海明け」より 北海道帝大水産専門部を中退後、早稲田仏文科卒。 横光利一に師事し1937年「海豹」で文壇デビュー。 33才でで芥川賞を受賞する。中国で敗戦を迎え、その後、約9ヶ月間の抑留生活を送りました。昭和21年5月、復員した八木義徳は昭和20年3月の東京大空襲により、妻子を亡くしたことを初めて知りました。文字通り、一文無しで、横浜市鶴見区馬場町の兄夫婦の家へ転がり込みました。昭和25年兄義弘自殺。左肺に悪性の腫瘍が見つかり、医師である兄は自己診断し、みずからの命を絶つ。 1999(平成11)年11月9日、八木義徳は遺作となった「われは 蝸牛に似て」の校了をした直後、昏睡状態に陥り、永眠。享年88歳。病院のベッドから、正子夫人に「原稿用紙を持ってきなさい」と、告げたのが最期の言葉。 |
「東蝦夷地南部藩陣屋跡モロラン陣屋跡」 (室蘭市陣屋町2丁目5番地) 350人が常駐して警備にあたった大規模な陣屋 この陣屋が造られたのは江戸時代の末期。異国船が相次いで来訪し、北海道を含む日本列島の北方域はロシアの侵犯に脅かされていた。このため南部藩(現岩手県盛岡市一帯)が幕府の命により東蝦夷地(噴火湾を含む太平洋岸)の海岸警備に当たることになった。 |
安政2年(1855)勘定奉行、新渡部十次郎(新渡戸稲造の父)ら28人が、調査を行った箱館に元陣屋、エトモ場所が営まれ天然の港である室蘭のペケレオタ(白い、または明るい砂浜の意。現室蘭市陣屋町付近)に、出張陣屋を構築することを決めた。 翌安政3年の3月(旧暦)から南部藩の村田宗吉ら大工18人、左官4人、屋根ふき5人、土方40人、きこりなど45人余りで工事が進められ、同年9月に陣屋が完成した この陣屋跡は、昭和9年5月、国の史跡指定を受けた。昭和43年から5年がかりで土塁と堀の修復や屋敷跡の平面復元が行われ、建物の礎石や石敷きの通路が整理されている。 http://www.city.muroran.lg.jp/main/org9400/bunkazai_jinyasiseki.html 引用させて頂きました。 |
「東蝦夷地南部藩陣屋跡モロラン陣屋跡」