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北海道の文学碑

宮沢賢治記念館              2014年11月22日

宮沢 賢治(みやざわ けんじ、正字:宮澤 賢治、1896年(明治29年)8月27日[1] - 1933年(昭和8年)9月21日)は、日本の詩人、童話作家。
郷土岩手に基づいた創作を行い、作品中に登場する架空の理想郷に、岩手をモチーフとしてイーハトーブ(Ihatov、イーハトヴ
あるいはイーハトーヴォ(Ihatovo)等とも)と名づけた

生前に刊行されたのは『春と修羅』(詩集)と、『注文の多い料理店』(童話集)だけであったため、無名に近い状態であったが、
没後に草野心平らの尽力により作品群が広く知られ、世評が急速に高まり国民的作家となっていった
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%B3%A2%E6%B2%BBより引用させてもらいました。

宮沢賢治資料館 宮沢賢治資料館
宮沢賢治資料館
宮沢賢治資料館
よだかの星
宮沢賢治資料館
宮沢賢治資料館
お土産やさん「注文の多い料理店」

風の又三郎
宮沢賢治資料館
月夜のでんしんばしら


宮沢賢治資料館
宮沢賢治資料館
賢治の学校
賢治の学校
宮沢賢治童話村
宇宙、天空、大地、水の四のテーマからなる「賢治の学校」

宮沢賢治資料館
宮沢賢治資料館
宮沢賢治資料館
セロ弾きのゴージュ

「雨ニモマケズ」
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ

宮沢賢治が生徒に貸したマント  
右  東には紫磨色の薬師佛  そらのやまひにあらわれ給う


羅須知人協会


羅須知人協会
羅須知人協会
羅須知人協会 羅須知人協会
羅須知人協会
やぶや総本店
宮沢賢治がこよなく愛した「天ぷらそばとサイダー」
やぶや総本店
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコハガラナクテモイヽトイヒ
北ニケンクヮヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

賢治が愛した場所に立っている。
「アメニモマケズ」の後半部分が刻まれています。
東北砕石工場の嘱託を務めていた賢治が壁材のセールスに上京して再び病に倒れ、

花巻の実家に戻って闘病中だった1931年秋に使用していた黒い手帳に記されていたものである。
冒頭部のページ上部に青鉛筆で「11.3」の書き込みがあることから、同年11月3日に執筆したと
推定されている。手帳は全体として自省とその当時の賢治の願望が綴られた内容となっている。
この手帳は今日、研究者からは「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれる。
賢治の生前には手帳自体の存在が家族にすら知られておらず、本作も未発表のままであった。


文字は高村幸太郎
花巻市桜町4

宮沢賢治の生涯

幼少時代 質屋という陰険な商売や、次々病人が絶えなかったことから、いつともなく人の世の悲しみと
いうものが身にしみていた。
農林学校時代 姉のトシが肺をやみ、家に帰ってきてから、大正7年いらい続けていた菜食と寒行をしながら、法華経の道を実践していた。
家出 大正10年1月23日25歳で東京に家出する。浄土真宗をやめて法華経に帰依してと頼んだが聞き入れてもらえなかった。父が心配して上京して一緒に比叡山や奈良などを旅する。
姉のトシは花巻で教諭していたが、また病気になったので、賢治は東京で書いた童話の原稿を大きなトランクに入れて帰ってきた。
農学校教諭時代 妹のトシが24歳で亡くなる。
羅須地時代
(らすちじだい
大正15年・農学校の先生をやめる
「生徒には農村に帰って立派な農民になれと教えていながら、自分で先生をしてるのは心ぐるしいことだ。口だけでなく農民と一緒に、苦しくてもじっさいに土をほろう」
畑を作って野菜や花を作って町に売りにでます。いつも黄色の農民服と大きな麦わら帽子です。「羅須地人協会」となづけ、農学校で教えることを実際に教え、また音楽もしました、
いつも年も八月になると空もようばかり気にします。寒いと凶作になるからです。
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ

そんな無理ばかりし、過労と粗食で体が弱ってきて、病床につくようになった。
砕石工場技師 その後三年も寝て病気もよくなった。
石灰岩を機械でくだいで肥料を作る工場に技師として懸命に働く。
その見本を持って上京し駿河台で高い熱を出して、家に帰ってきてそのまま病床につく
遺言状 この一生の間、どこのどんな子供も受けないような厚いご恩を頂きながら、いつも我慢でお心に背きとうとうこんなことになりました。
今生で万分の一もお返しできたかったご恩はきっと次の生また次の生でご報じいたしたいとそれのみを念願します。
どうか信仰というのではなくても、お題目で私をお呼び下さい。
その題目で絶えずお詫び申し上げてお答えいたします。

父上さま
母上さま
臨終 それから2年は病床。九月21日、お昼、二階で合掌して題目を唱えていました。
父が「遺言することはないか」といいますと

「国訳妙法蓮華経を千部お作り下さい。
表紙は朱色、お経の後ろには”私の生涯の仕事はこの経を
あなたのお手元に届け、その中にある仏意にふれて、あたなが無上道に入られますことを”という事を書いて知己のかたにさしあげてください」
といいました。
少し水を飲んで、体中を自分でオキシフルをつけた脱脂綿でふいて、その綿をぽろっと落としたときにはもう息を引き取っていました、1時30分でした。(昭和39年1月20日)

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