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北海道の文学碑

正岡子規文学館 および子規堂 2019年10月
正岡子規は、慶応3年(1867年)9月17日(新暦:10月14日)、伊予国温泉郡藤原新町(現松山市花園町)で生まれました。翌年が明治元年ですから、子規の年齢は明治の年号と同じになります。
本名を常規(つねのり)、幼名を(のぼる)といい、父常尚(つねなお)は、松山藩士御馬廻番、母八重は藩校明教館教授大原観山の長女です。
5歳のとき父を亡くした子規は、祖父大原観山の訓育を受け、叔父加藤拓(かとうたくせん)川(後外交官、松山市長)の影響を受けました。
自由民権運動に触発され、政治家をめざして明治16年に上京、第一高等中学校、帝国大学文科大学に進学します。
しかし、22歳のときに喀血して「子規」と号したころから真剣に文学を志し、大学を中退して入社した日本新聞社で、俳句や短歌の革新を叫び、新体詩を試み、写生文をとなえました。
明治28年からは脊椎カリエスの病苦にあえぎながらも、死の2日前まで随筆「病牀六尺」を発表しつづけて、明治35年(1902年)9月19日に亡くなりました。
「写生」に根ざした子規の文学は、多くの仲間とともに子規山脈を形成し、近代文学史上に輝いています

 正岡子規
坊ちゃん列車
正宗寺
 正岡子規
子規堂
正宗寺
 正岡子規
 正岡子規

正岡子規正岡子規子規自画像
子規随筆「病牀六尺」原稿
 正岡子規
勉強部屋
当時のものだそうです
正宗寺
 正岡子規
正宗寺
 正岡子規
正岡子規記念館
 正岡子規
ユニホーム姿の子規
うちはずき球キャッチャーの手にありて
ベースを人のゆきがてにする
 正岡子規
当時の愚陀佛庵
 正岡子規正岡子規記念館にて  正岡子規  正岡子規正岡子規[まさおか・しき]
俳人、歌人。本名、正岡常規(つねのり)。幼名、升(のぼる)。
慶応3年10月14日(旧暦9月17日)~明治35年9月19日。
現在の愛媛県松山市花園町に生まれる。
明治16年、上京。当時は政治家志望であったが、やがて文学者志望に転ずる。
明治25年、俳句論「獺祭書屋俳話」の連載を開始し、注目を浴びる。明治28年、日清戦争従軍後、帰国途中に喀血。
以後、永い病床生活に入るも、文学上の仕事は活発化し、翌29年には三千以上の俳句を残す。
明治31年、「歌よみに与ふる書」を発表し、短歌革新にものりだす。
芭薫や古今和歌集についての自説を展開して、それらの全国的な再評価を喚起した。
明治35年9月19日、脊椎カリエスにより死去。享年34歳。
その凄絶な闘病生活は、随筆「病牀六尺」(明治35)などに詳しい。代表作は「獺祭書屋俳話」、「歌よみに与ふる書」、「病牀六尺」、「竹乃里歌」、「寒山落木」など。
 正岡子規

子規の業績に詳しい国文学者の復本一郎・神奈川大名誉教授(74)

 教科書にも載っている左顔をとらえた横顔の写真は、子規の死の約2年前、明治33(1900)年に撮影された。

 復本さんによると、子規の友人、門人らは江戸期の俳人、与謝蕪村(ぶそん)(1716~1784年)の命日「蕪村忌」に記念撮影をした。

 が、子規は病気で伏せっており、友人らの撮影会に参加できなかった。そこで翌日、自宅に写真屋を呼んで撮らせた。その写真こそ、後世子規の肖像として使われ続ける横顔の写真だった。なぜ横顔だったのか?

 復本さんによると、そのころの子規は持病の脊椎カリエスが悪化、前屈みの姿勢になっていた。正面からの撮影で、背筋を伸ばすのが難しかったのだろう。

 「その頃は、いすにきちんと座ることさえできなかった。あの横顔の写真も無理して撮って、その後痛みに苦しんだようです。結果として、あれが最後の写真となりました」

 正岡子規
日めくりカレンダーを買いました。1500円です
 
記念館の近くに咲いていました