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北海道の文学碑

足を延ばして山口に行きました。2017年11月13日
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E3%81%BF%E3%81%99%E3%82%9Eより引用
金子 みすゞ(かねこ みすず、1903年(明治36年)4月11日 - 1930年(昭和5年)3月10日)は、大正時代末期から昭和時代初期にかけて活躍した日本の童謡詩人。
本名、金子 テル(かねこ テル)。
大正末期から昭和初期にかけて、26歳で死去するまでに500余編もの詩を綴ったとされる。1923年(大正12年)9月に『童話』『婦人倶楽部』『婦人画報』『金の星』の4誌に一斉に詩が掲載され、
西條八十からは「若き童謡詩人の中の巨星」と賞賛された。
山口県大津郡仙崎村(現・長門市仙崎)の生まれ。郡立大津高等女学校(現・山口県立大津緑洋高等学校)卒業。
父は、妻(みすゞの母)の妹の嫁ぎ先である下関の書店・上山文英堂の清国営口支店長だったが、1906年(明治39年)2月10日、みすゞが3歳のときに清国で不慮の死[1]をとげる。
劇団若草の創始者である上山雅輔(本名:上山正祐)は彼女の実弟であるが、幼くして母の妹(みすゞにとっては叔母)の嫁ぎ先である上山家に養子に出されている。
叔母の死後、正祐の養父とみすゞの母が再婚したため、みすゞも下関に移り住む。同時に、みすゞと雅輔は実の姉弟でありつつ、義理の姉弟の関係となる。
1926年(大正15年)、叔父(義父)の経営する上山文英堂の番頭格の男性と結婚し、娘を1人もうける。しかし、夫は正祐との不仲から、次第に叔父に冷遇されるようになり、
女性問題を原因に上山文英堂を追われることとなる。
みすゞは夫に従ったものの、自暴自棄になった夫の放蕩は収まらず、後ろめたさからかみすゞに詩の投稿、詩人仲間との文通を禁じた。
さらにみすゞに淋病を感染させるなどした事から1930年(昭和5年)2月に正式な離婚が決まった(手続き上は成立していない)。
みすゞは、せめて娘を手元で育てたいと要求し、夫も一度は受け入れたが、すぐに考えを翻し、娘の親権を強硬に要求。
夫への抵抗心から同年3月10日、みすゞは、娘を自分の母に託すことを懇願する遺書を遺し服毒自殺享年28〈数え年〉、26年の短い生涯を閉じた。戒名は釈妙春信尼

金子 みすゞ記念館 


二階のここから通りをみていたと言う。


生家跡に建てられた金子みすゞ記念館

わたしと小鳥と鈴と

わたしが両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴はわたしのように、
たくさんなうたは知らないよ。

鈴と、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

♪大漁(たいりょう)

朝やけ小やけだ
大漁だ
大ばいわしの
大漁だ。
浜はまつりの
ようだけど
海のなかでは
何万の
いわしのとむらい
するだろう。

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