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北海道の文学碑
女満別・美幌・愛別町・湧別町・遠軽・網走まで

刑務所・吹雪・流氷・さいはてー網走国道39号線

オホーツクへの道

「網走」という地名は「ア・パ・シリ」(我らが見つけた土地)から出たとも、「アパ・シリ」(入り口の地)
あるいは「チバ・シリ」(幣場のある島)などの諸説があって定まりませんが、
いずれにしろ「アパシリ」というアイヌ語を漢字にあてたものとされています。
・四国の土佐の植民会社・北光社が募集した120戸・350名
クリスチャンで初代社長坂本直寛は坂本龍馬の甥。直寛はまもなく株主と衝突して浦臼にうつる。
北光八幡神社境内には碑がたっている。その後キリスト教はピアソン夫妻の伝道で変化を残した
網走刑務所ができたのは明治23年(1890年)だが、その目的は北見道路の開削する労働力として囚人を使うため。

日本共産党の宮本顕冶は終戦をここで聞いた。治安維持法によって昭和20年6月に送られてきた。

小田観螢文学碑
小田観螢文学碑
朝明けて田畑は楽し はたらけば風もうまくて
辛夷咲き小鳥さへづり 稲実り馬ぞいななく
北の国さやけき日ざし 果てもなく広らにふかき
蒼空をおのがこころに 生くべかりけり
小田観螢文学碑
女満別町 町役場前
小田観螢(おだかんけい)
1886(明治19)年11月7日〜1973(昭和48)年1月1日
本名哲弥。岩手県宇部村(現久慈市)に生まれ、1900(明治33)年両親とともに小樽に移住。奥沢小学校の代用教員となり、1951(昭和26)年札幌短期大学教授にいたる50年余の教員生活を送る。1902(明治35)年頃より和歌、美文等を創作し、「文章世界」に投稿を始める。1909(明治42)年には富良野の小学校に勤務。1915(大正4)年太田水穂が短歌結社誌「潮音」を創刊するや率先して加盟する。70年に及ぶ長い歌人生活に対して、日本歌人クラブ名誉会員、第1回北海道文化賞、北海道新聞文化賞受賞、第1回小樽市功労者(教育文化)表彰。主著に歌集「隠り沼」(こもりぬ)「忍冬」「蒼鷹」「暁白」「天象」「晩暉」「小田観螢全歌集」など。
北国の日筋きびしく差す下に  
        能取・網走のうみ二つ見ゆ
宮柊二文学碑

昭和61年74歳病没
1939年、歩兵二等兵として日中戦争に従軍した。
戦場は中国山西省。上官の勧めを退け幹部への道を断ち、四年間、彼は一兵卒に自分を縛りつけて、戦争を直視しつづけた。北原白秋の弟子であった。

おそらくは知らるるなけん一兵の生きの有様をまつぶさに遂げん

柊二27歳。覚悟を決めての「出征」だった。
「死ぬな」と言った白秋先生は、彼の従軍中に亡くなった。
1942年11月4日、寧武部隊西野曹長からの軍用電話があった、
「北原白秋氏逝けり、君よ知るか」。  
柊二は声を上げて泣いたという。

網走市 天都山展望台 屋上
宮柊二文学碑
臼田亜浪文学碑
今日も暮るる吹雪の底の大日輪
昭和32年11月建立
臼田亜浪文学碑(うすだあろう)
本名 臼田卯一郎
明治12年2月1日長野小諸に生まれる。
昭和26年11月11日逝去。中野宝仙寺に葬る。
明治34年法政大学を卒業し、新聞界に入るが、大正3年去る。
翌4年乙字の援助を得て「石楠」創刊、没年まで主宰。
「石楠」主宰の俳人で、ホトトギスを批判し新しい自然観を確立
亜浪の句碑は全国に二十三か所あり、北海道には洞爺、登別、本別、網走の四か所がある。「この句碑は本邦俳壇の巨匠故臼田亜浪先生が大正十三年一月北門巡杖の途次ゆかりの地網走の旅舎から望んだ朔北厳冬の大自然に描きだされたすばらしい景観に詩情を深め‥‥」
金田一京助碑

おほつくのもよろのうらの夕凪にいにしよ志のび君とたつかな
金田一京助文学碑

網走では川向いと呼ばれる北二条東二丁目の、モヨロ貝塚の一隅に建つ言語学者金田一京助博士は、戦後モヨロ貝塚の発掘調査の指導で、何度か来網された。千五百年ほど前、オホーツク海沿岸に定住していた氷海の民オホーツク文化人は、今も謎の多い先住民族である。
 金田一京助は昭和二十三年(1948)には一か月余り米村喜男衛さん宅に滞在されたという。当時は食糧難の時代で、米村美登里夫人は近隣部落の農家をかけ廻って米や麦を集めた。鱈を買い求めて三平汁にしてもてなしたが、これが博士の好物でずいぶん喜んで食べていたという。
 古代をしのんで君と立つの「君」は、米村喜男衛さん
美幌
菊田 一夫「君の名は」
君の名は 文学碑
碑文の内容

真知子は春樹を慕って美幌駅におり立ち、
この松の下に佇んで迎えの馬車を待った。
(その後この松は「まちこ松」と呼ばれるようになった)
しかしめぐり逢いのよろこびも束の間 やがて別離のときがきた


「別れゆきて いつまた逢える 美幌の駅」 
菊田 一夫(きくた かずお、1908年3月1日-1972年4月4日)は、神奈川県横浜市生まれの劇作家。本名は数男。
1933年浅草の劇団「笑ひの王国」(古川緑波らが主宰)の座付き作者となり、1935年劇団が東宝の所属になると共に東宝文芸部の主力となり1955年から、東宝取締役。その功績を彰して1976年から毎年、菊田一夫演劇賞が贈られる。
黒百合の歌の歌碑
黒百合の歌の歌碑

黒百合は恋の花 愛する人に捧げれば
二人はいつかは結びつく     
あああ・・
この花ニシパにあげようか
あたしはニシパが大好きさ。

忘却とは忘れ去ることなり 忘れ得ずして
忘却を誓う心の悲しさよ
(美幌町 美幌駅前 ) 
 作詞 菊田 一夫  作曲 古関 裕而
歌い手 大津美子
美幌峠 美幌峠 歌碑
あなた忘れる旅だけど 霧が心をまよわせる
なにも見えない峠に立てば にくしみだけが遠ざかる
ああさいはての 美幌峠に霧が降る

あすはサロマか裏摩周
つらくなりそな しぐれ空
あれは和琴と 指さす人の
どこか似ている うしろかげ
美幌峠に 風が哭く

作詞 志賀  貢  
作曲 岡  千秋
歌い手 美空ひばり
「もしもし美空ひばりです。先生の作った歌を歌いたくなりました。よろしいでしょうか。」と作詞家の志賀さんに電話がきたそうです。ひばりの人生は華やかだったが多難だった。52歳で亡くなる。
湧別町
昭和51年皇太子妃殿下


砂州越えて
オホーックの海
望みたり
佐呂間の海に稚魚を散らせて

昭和51年皇太子妃殿下
大町桂月文学碑
奇花異草接天空 馬跡輪痕川字通
百里狭洲波浪裡 恍然疑是到竜宮
大町桂月文学碑
湧別町三里浜 龍宮台展望公園
大町桂月(おおまちけいげつ、1869年3月6日(明治2年1月24日) - 1925年(大正14年)6月10日)は高知市出身の詩人・歌人・随筆家・評論家。名は芳衛。雅号の桂月はよさこい節にも唄われる月の名所桂浜に因み、桂浜月下漁郎を縮めたもの。
明治29年、東大国文科卒。『文芸倶楽部』『太陽』などに随筆を書き美文家として知られた。それは韻文・随筆・紀行・評論・史伝・人生訓など多彩であった。 和漢混在の独特な美文の紀行文は広く読まれた。終生酒と旅を愛し、酒仙とも山水開眼の士とも称された。 晩年は遠く朝鮮、旧満州(中国東北部)まで足を延ばしている。
大正14年(1925)没、57歳。 なお、晩年は、青森県の蔦温泉(現:十和田市)に居住し、本籍も現在の十和田市に移した。墓は、蔦温泉の温泉旅館の近くにある。
大町桂月がこの地へつながる砂州を「竜宮へ続く道」と形容した。
愛別町
百田宗治文学碑

あんたろまから こいと いう
縁側から、正面に、大雪山の雪渓が
見えると いう。
石狩の上流が あふれて、
泥やなぎの根を洗って いるのを、
見にこいと いう。
山女を 食いに こいと いう。
えさも ある。 郵便局もある。
望みなら、手ごろの住居も
建てて やると いう。
薪にも 不自由は させぬという。
埋もれに こよと いえ。
死にに こよという。

どこかで春が
百田宗治
 
どこかで「春」が
生れてる
どこかで水が
ながれ出す

どこかで雲雀が
啼いている
どこかで芽の出る
音がする

山の三月
東風吹いて
どこかで「春」が
うまれてる
百田宗治文学碑
百田宗治(ももたそうじ )文学碑


 アンタロマに来よという  大雪山を見に来よという
 埋もれに来よという

 愛別町愛山 安足間神社境内 
昭和34年10月11日建立

百田宗治(本名 百田宗次)は、明治26年(1893年)大阪市に生まれ、
昭和30年(1955年)12月12日死去した。
 明治32年、道仁尋常小学校(昭和62年廃校)入学、同38年育英第一高等小学校(昭和12年廃校)卒業後、個人的にフランス語を学んだ。大正4年、初めて百田宗治の名で詩集「最初の一人」を刊行、次いで個人小雑誌「表現」を創刊した。大正7年、これら2詩集の代表作をも収録した総合詩集「ぬかるみの街道」を出版するに及んで民衆派詩人としての声価を高めた。大正15年、三好達治、丸山薫、北川冬彦など多くの詩人や作家を同人として「椎の木」を創刊、主宰。
遠軽町
留岡幸助
留岡幸助(とめおかこうすけ、1864年3月4日-1934年2月5日)は、日本の社会福祉の先駆者で、私立男子感化院(彼自身は、この感化院という呼称を嫌った。現在の児童自立支援施設のこと)教育の実践家。北海道家庭学校の創始者として知られる。
留岡幸助は、岡山県生まれ。1880年にキリスト教信者となり、
1885年同志社英学校別科神学科邦語神学課程に入学。新島襄の教えを受ける。京都での学生時代、徳富蘆花と交友を結ぶ。彼の小説『黒い眼と茶色い眼』の中に登場する「邦語神学の富岡君」は留岡がモデルだといわれる。 1888年卒業後、福知山で教会牧師となる。91年に北海道空知監獄の教戒師となった。94年から99年までアメリカで感化事業を学ぶ。北海道家庭学校周辺の地域は、留岡の功績にちなんで1961年、地名を「下社名淵」から「留岡」と改められた。1931年巣鴨の家庭学校本校で、奉教五十年を祝う感謝の会が開かれ、彼は徳富蘇峰と会談中に脳溢血で倒れる。1934年2月5日東京の祖師谷の自宅でなくなる。
留岡は、「流汗鍛錬」を生活信条に据えた。大自然の中、農作業などの生活体験を通じて規律を体得させるというもので、その構想を実現するため、留岡は内務省が示した北海道と九州の国有地の中から「北海道の厳しい自然の中で少年たちをじっくりと育てたい」と、遠軽町の国有地を選択した。
留岡幸助

留岡幸助(とめおかこうすけ)の碑
紋別市 遠軽町 北海道家庭学校 
留岡幸助
オホーツク文学碑公園  紋別郡遠軽町生田原
山名康郎文学碑
わが頭上過ぎたる影はオホーツクの流氷原を舞ふ尾白鷲
「短歌現代」(平3.2)    山名康郎文学碑
中山周三文学碑
氷海をしりへに帰る丘のみち人見かけねば馬なりと出よ
「原始林」(昭45.8)    中山周三文学碑
鮫島交魚子
伐採の明日は下山や兎汁
句集「花栗」(昭52.6)    鮫島交魚子
地の涯の曇天つづくいもの花
句集「雪鳴」(昭40.10)   山岸巨浪
母の町なり緑陰至るところにあり
句集「火を放て」(昭26.7)  園田夢蒼花
原田康子文学碑
宗谷岬 小説「風の砦」
原田康子文学碑
香織は矢立を手にとり、難所や砂浜のありさまを一々書き
とめながら先へ進んだ。馬で岩礁を越えるのは気骨が折れた
が、運上屋や幕府の役所へ出かけるよりは、はるかに気持ち
がよかった 小説「風の砦」より

原田 康子(はらだ やすこ、1928年1月12日 - )は東京都生まれ、北海道釧路市出身の作家。高等女学校卒業後、地元新聞社に勤務。1949年に同人雑誌「北方文芸」に処女作『冬の雨』を発表し、以後も同誌を中心に短編・長編を発表。1954年「新潮」同人雑誌賞に『サビタの記憶』で応募、最終候補に残って伊藤整らの高い評価を得る。翌年から「北海文学」誌上に長編『挽歌』を連載。1956年に出版されると空前のベストセラーとなり、映画化されるなど大きな反響を呼んだ
田宮虎彦文学碑
北見神威岬 随筆「オホーツク海岸をゆく」
田宮虎彦文学碑
オホーツクの海沿いの旅は、もちろん数多い湖沼や原生花園、
また広い原野や砂丘のつらなりを見るに楽しさがあるに違いない。
随筆「オホーツク海岸をゆく」より
『網走の町へ走る道路は、網走湖から流れ出て、網走の町でオホーツク海に流れこむ網走川にそっていた。――萌え出た草の緑におおわれた川堤の間を、雪融けで水量を増した水がゆったりと流れている。その川のむこうになだらかな低い丘が、やはりもう緑につつまれて、絵のようにという言葉のままにつづいていた』

田宮 虎彦(たみや とらひこ、1911年8月5日-1988年4月9日)は、昭和期の小説家。
神戸市に育ち、東京帝国大学文学部国文学科在学中から、同人誌『日暦』に参加し、小説「無花果」などを発表する。女学校教師などをしながら小説修業を続ける。 1947年に『世界文化』に発表した「霧の中」で注目され、小説家生活に入る。精力的に作品を発表し、1951年『絵本』で毎日出版文化賞を受ける。
1988年1月に脳梗塞で倒れ、右半身不随になり、同年4月9日、北青山のマンションから投身自殺する。享年77。
父は高知市、母は香美郡香宗村(現・香南市)の出身。
土佐を郷里と意識していた。 「足摺岬」など土佐を題材とした作品も多い。
河邨文一郎(かわむら ぶんいちろう)

詩集「天地交驩」から「北方の眼」
河邨文一郎文学碑

涛は寄せ、はまなすも咲かぬ 人気のない浜に
涛は寄せ、たてがみをふり牙をむき
群なす海豹の咆哮をのせて     

河邨文一郎(かわむら ぶんいちろう 1917年4月15日 - 2004年3月30日)は、整形外科医、元札幌医科大学教授、詩人。

北海道小樽市出身。北海道帝国大学医学部卒業後、東京帝国大学医学部を経て、札幌医科大学教授。北海道の「肢体不自由児の父」と呼ばれる。医師から作家に転向した渡辺淳一は、教え子のひとりである。

氏の作詞した札幌オリンピックのテーマ曲「虹と雪のバラード」はオリンピックが終了して30年を経ても時々CMソングに流れるなど、多くの人に愛されている。
高橋揆一郎文学碑
サロマ湖 随筆「湧網線」
高橋揆一郎文学碑
私は二年前の秋にここを訪れてサンゴ草の広大な紅絨毯
を目のあたりにして擬然と立ち竦んだものだ。
青い空と水と赤い陸地のとり合わせは非現実の世界だった。
常呂、佐呂間、湧別の三町にまたがるサロマ湖は、北海道
第一の塩水湖だ。  以下略 随筆「湧網線」より
『車内のかすかなざわめきで、終着網走が近いことが知れる。すると自分が疑いもなく柏原多恵と会うために、いまこうしてやってきたのだ、と急に意志的な気分になり、私は坐り直して窓の風景にとりついたりした。車窓の左手に、樹林に囲まれた純白の雪原が見えてきた。あとで聞いて知ったのだが、その雪原が網走湖だった。私にはとても湖には見えなかった。湖は結氷をとかぬまま、まだふかぶかと眠っていた。
 湖畔近く、青鷺が一羽、片脚でつくねんと佇んでいた。青鷺は上を向くのではなく、うつむいていたため生気が感じられなかった』高橋揆一郎は昭和3年歌志内で生まれた。昭和53年7月14日、『伸予』で道内在住の作家としてはじめて芥川賞を受賞しました。
「生まれ育った故郷からは抜け出せない。私の本質は歌志内の風土そのものだ」と語っています。その後も北海道に根を下ろし、さまざまな作品を生み出しています。
八木義徳文学碑
北オホーツク沿岸 小説「風景」
八木義徳文学碑
暮しのかかった言葉は美しい、と私はもう一度思った。
この海明けという言葉はオホーツク沿岸の漁師たちの
痛切な生活実感のなかから生れた言葉にちがいない。
小説「風景」より

八木義徳は1911(明治44)年10月21日、北海道室蘭市大町
(現・中央町)33番地で室蘭町立病院長である父田中好治、母セイ芸者だった)の次男として生まれました。
この二百メートルほどの高さをもった小さな山の頂上は、中学時代の史郎にとってはもの思う場所≠セった。   「海明け」より
北海道帝大水産専門部を中退後、早稲田仏文科卒。
横光利一に師事し1937年「海豹」で文壇デビュー。
33才でで芥川賞を受賞する。中国で敗戦を迎え、その後、約9ヶ月間の抑留生活を送りました。昭和21年5月、復員した八木義徳は昭和20年3月の東京大空襲により、妻子を亡くしたことを初めて知りました。文字通り、一文無しで、横浜市鶴見区馬場町の兄夫婦の家へ転がり込みました。昭和25年兄義弘自殺。左肺に悪性の腫瘍が見つかり、医師である兄は自己診断し、みずからの命を絶つ。
1999(平成11)年11月9日、八木義徳は遺作となった「われは
蝸牛に似て」の校了をした直後、昏睡状態に陥り、永眠。享年88歳。病院のベッドから、正子夫人に
「原稿用紙を持ってきなさい」と、告げたのが最期の言葉。
三浦綾子文学碑

野付半島 小説「石の森」
三浦綾子文学碑
やがて車はオホーツクの海に出た。昨日斜里の浜で見た
 オホーツクの海は、青空の下に明るいのどかな春の海だ
 った。が今日のオホーツクの海は、くもり空の下に秋の海の
 ように侘びしかった。 以下略 小説[石の森」より
三浦 綾子(みうら あやこ、1922年4月25日 - 1999年10月12日)は、北海道旭川市生まれの女性作家、エッセイスト。旭川市立高等女学校卒業。
結核、脊椎カリエス、心臓発作、帯状疱疹、直腸癌、パーキンソン病など度重なる病魔に苦しみながら、クリスチャン(プロテスタント)としての信仰に根ざした著作を次々と発表。
1961年、『主婦の友』募集の第一回「婦人の書いた実話」に「林田律子」名義で『太陽は再び没せず』を投稿し入選。翌年、『主婦の友』新年号に「愛の記録」入選作として掲載される。
1963年、朝日新聞社による大阪本社創刊85年・東京本社75周年記念の一千万円(当時の一千万円は莫大な金額であった)懸賞小説公募に、 小説『氷点』を投稿。これに入選し、1964年12月より朝日新聞朝刊に『氷点』の連載を開始する。

渡辺淳一文学碑
紋別  小説「流氷への旅」
渡辺淳一文学碑
港から、すでに一キロ近くきている。
氷原は岸に近いあたりから見ると、起伏が増し、
ところどころに小山のように盛り上った氷の塊がある。

能取湖を選んだ理由を「二つの湖(サロマ湖も)が一部、海と接した潟湖で、湖の性質も景観もよく似ているからである」と書き、二つを説明したあと、二つの湖で見逃せないのはサンゴ草だという。
 サンゴ草は学名はアッケシ草という。釧路管内の厚岸で初めて発見されたためこの名がついた。
渡辺 淳一(わたなべ じゅんいち、1933年10月24日 - )は日本の作家。北海道上砂川町出身。1958年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。同大学の和田寿郎教授による日本初の心臓移植手術(1968年8月8日)を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題)を発表し、大学を去る。1970年、37歳の時に『光と影』で第63回直木賞を受賞し、その後現在に至るまで、話題作『失楽園』などの作品が映像化された
瓜生卓造文学碑

知床五湖 随筆「知床旅情」
瓜生卓造(うりゅう・たくぞう)文学碑
トドマツと白樺と桜と黄葉と、一つ二つと台地を越した。
小一時間も歩いたであろうか、目の前に忽然として湖が現われた。
随筆「知床旅情」より

1920〜82。神戸市生れ。
学生時代、スキー選手として活躍。登山、探検をテーマとする作品を多く発表。
兵庫県神戸市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。
受賞歴 第32回芥川賞候補(昭和29年)「南緯八十度」
第29回読売文学賞随筆紀行賞(昭和52年)『檜原村紀聞』
昭和8年に父親が札幌局長となり、札幌一中生活を送った。

高見順文学碑

納沙布岬 小説「北海の渡り鳥」
高見順文学碑
朝はクナシリ島が見えるくらい快晴だったのに、ノサップ岬に
着くと、霧が濃く立ちこめていて全く眺望がきかなかった。

高見順(たかみじゅん、本名・高間芳雄、1907年1月30日-1965年8月17日)昭和期の小説家、詩人。
福井県知事阪本ソ之助の非嫡出子として福井県坂井郡三国町(現坂井市三国町)平木に生まれる。阪本ソ之助は永井荷風の父方の叔父であり、したがって荷風と高見順は従兄弟同士になるが、それにも拘らず互いに極めて険悪な関係にあった。また詩人阪本越郎も阪本ソ之助の息子(高見順の異母兄)である。
1歳で上京。実父と一度も会うことなく東京麻布に育つ。私生児としてしばしばいじめを受けた。東京府立第一中学校から第一高等学校を経て東京帝国大学英文科卒業。在学中より「左翼芸術」などに作品を発表し、プロレタリア文学の一翼を担う作家として活動する。1932年、治安維持法違反の疑いで検挙されるが、「転向」を表明し、半年後に釈放される。
1935年、饒舌体と呼ばれる手法で「故旧忘れ得べき」を著わす。これが、第1回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立する。
また、詩人としても活躍し、「樹木派」、「死の淵より」などを発表する。また、昭和史の資料ともいえる「高見順日記」を著わす。
、日本近代文学館の建設に尽力、完成間近に食道がんで亡くなった。

渡辺茂文学碑
詩集「泥炭地層」から「オホーツク漁村」
渡辺茂 文学碑

季節の漁歌もなく 謎を刻む無人の断崖が続く
逆光に削る 羅臼・知床の山脈 

明治40年 宮城県生まれ  
詩人・郷土史家
大正末期から釧路に住む昭和15年に札幌にきて
57年に没。
更科源蔵と歩をともにする
詩誌「港町」創刊 著書「北海道方言集」「北海道歴史事典」
船山馨文学碑

網走 小説「見知らぬ橋」
船山馨文学碑
『やがて車が海岸へ出ると、名緒子は眼を奪われた。
 遥かな沖に、黒い海の色があるにはあった。だが、その黒い帯状の海に行きつくまでは、いちめんの氷の荒野だった。
 海岸に近いあたりは、押寄せる流氷の圧力に砕かれて、盛りあがり積み重なった氷塊が、おびただしい白い岩石の山をつくっている。それは、海というよりは、途方もない規模をもった火山の、溶岩の累積が、行きに覆われて展開しているかのように、名緒子の眼には映った。
「内地からおいでになった方には、珍しい眺めでしょうけれど、土地の人間には頭痛の種です」
 初老の痩せた運転手が云った』

物語は網走で始まり、アラスカの氷河で遭遇する悲劇で終る。並河はクレバスに落ちた妻を助けるために死を選び、奈緒子は並河へ愛を凝縮した能面を持ってひとり氷河へ向かっていくのである

船山 馨(ふなやま かおる、1914年3月31日−1981年8月5日)は、日本の小説家、作家。
北海道札幌市に生まれる。
札幌二中に在学中、組合教会に通った。
1932年、早稲田高等学院に入学するも、1学期で退学。1934年に明治大学予科に入学し、1937年に商学部の1年のときに退学する。
1937年に北海タイムス(のちに北海道新聞に統合)の社会部学芸記者となる。1939年にふたたび上京し、四社連合に勤める。

更科源蔵文学碑
詩集「更科日記」から「怒るオホーツク」更科源蔵文学碑
「オホーツク海」
あの音楽会は今日だったのよという
そういえばイフクベさんが作曲してくれた
「怒るオホーツク」の演奏会は今日だったのだ

1904年(明治37年)父更科治朗、母ヨリ弟子屈町字熊牛原野で生まれ、1985年(昭和60年)
81歳9月25日脳梗塞のため札幌厚生病院にて死去。東京の麻布獣医専門学校を喀血し中退。、コタンの小学校の代用教員や酪農・印刷業などする傍ら、東京で勉学中、詩人尾崎喜八に認められた詩作を続け、アイヌの古老からアイヌ文化を教わる。その後札幌で生活するようになり、詩を書きつづけ同人誌の発行や郷土史・アイヌ文化の研究など文筆活動をされた。麻布獣医専門学校の夏休みに帰省したおり、姉ミヨの墓によって文学の世界に誘われる。「墓の前を通ると、強い秋の斜面をうけて百日草の花が真赤に咲いていた。その燃えるような花のあでやかさにいたれた私は、これをなんとか文章に表現してみたいと思ったのが、私に詩というものを書かせた最初である。」「まるで私の知らない姉が誰にも言えない開拓地の悲しみを、私に書かせるために、あのとき私をハッと立ち止まらせたかのように思われる」
  その業績は、北海道文化賞学術部門賞、NHK放送文化賞などが送られ、道内は勿論のこと全国的にも高く評価された。
  晩年は、自分史『原野シリーズ』5巻を出筆し、故郷『熊牛原野』にこだわり続けた詩人であった。
原子修文学碑 詩集「大白鳥」「ノサップ岬」原子 修文学碑
「ノサップ岬」

アレガ スイショウ島
−アレガ アキュリ島
人差し指の銃でどんなに狙いをつけても

昭和7年函館市生まれ  
昭和31年、「第一詩集」を刊行以来一貫して優れた現代詩の創作に専念してきた。
評論集「銀河へのいざない-宮澤賢治論」の他、童話集「月と太陽と子どもたち」を刊行し、詩劇26作品61公演を、道内、道外、国連本部、カナダ、アメリカ、ヨーロッパ、ロシアで行っている
札幌市立彫刻館々長

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