道東 (弟子屈・羅臼・根室)
国境のまち根室
更科源蔵文学碑 もうお前は忘れたかもしれないが あのとき頬かむりをして 開墾地の隅で泣きじゃくっていたのが 私だよ 雲よ あのとき茜色だったお前が 見るみる光を失って灰色に沈み 夕べの空にとけてしまったのを いつまでも見ていたのが 私だよ 雲よ 昭和52年10月1日建立 弟子屈町 公民館 直筆 1904年(明治37年)父更科治朗、母ヨリ弟子屈町字熊牛原野で生まれ、1985年(昭和60年)81歳で脳梗塞のため札幌厚生病院にて死去。東京の麻布獣医専門学校を喀血し中退。、コタンの小学校の代用教員や酪農・印刷業などする傍ら、東京で勉学中、詩人尾崎喜八に認められた詩作を続け、アイヌの古老からアイヌ文化を教わる。その後札幌で生活するようになり、詩を書きつづけ同人誌の発行や郷土史・アイヌ文化の研究など文筆活動をされた。麻布獣医専門学校の夏休みに帰省したおり、姉ミヨの 墓によって文学の世界に誘われる。「墓の前を通ると、強い秋の斜面をうけて百日草の花が真赤に咲いていた。その燃えるような花のあでやかさにいたれた私は、これをなんとか文章に表現してみたいと思ったのが、私に詩というものを書かせた最初である。」「まるで私の知らない姉が誰にも言えない開拓地の悲しみを、私に書かせるために、あのとき私をハッと立ち止まらせたかのように思われる」 |
湖の月鎮まる愛の透明度 木下春影(しゅんえい )文学碑 弟子屈町で摩周俳句会という俳句の同人会を主宰していた。旭川の氷原帯の発行所企画委員もしていたようだ。 (弟子屈町 公民館前) 残雪や峠越ゆれば酪農村 高倉牧人文学碑 十勝俳句連盟会員 (清水町 日勝峠第一展望台) |
今年また 山河凍るを誰も防がず 細谷源二文学碑 本名を源太郎。 昭和43年4月28日建立 弟子屈町役場駐車場横 明治三十九年九月東京に生まれた。幼少年期につづいた貧しさは、やがて源二が社会人となり作家として生長してゆく過程で、何物にも耐え得る強靭な力を身につける因となった 工場労働者の生活を主体としたリアリズム俳句を提唱。 戦前は2年あまりの獄中生活もした。 |
摩周湖は涼し太古の色のまま 伊藤柏翠(はくすい)文学碑 伊藤柏翠は本名を勇といい、明治四十四年(一九一一)東京浅草に生まれた。昭和七年(一九三二)鎌倉にて病気治療中より句を作り始め、昭和十一年(一九三六)高浜虚子に師事した。 現在日本伝統俳句協会副会長をこなし、句集「虹」「永平寺」「越前若狭」、随筆「花鳥禅」などを出版している。 |
世界遺産だ!おめでとう。羅臼・知床 | |
「私の立っていた位置が少しずれると、また別の方角で 金緑色の苔が、ひっそりと光を放ちました。」 「光輝くのではなく、光しずまる。 光を外にまきちらすのではなく、光を内部へ吸い込もうと しているようです」 武田泰淳「ひかりごけ」 戸川幸夫文学碑 羅臼町共栄 しおかぜ公園 昭和61年10月 「知床半島をなんとか、日本の多くの人々に紹介したいと 思って、私は34年から3年間、四季を通じて十数回、この 地域を訪れました」(野生の旅 知床半島) |
流氷に追いつめられし岬かな |
仮寝する窟におふる石小管 葺し菖蒲と見てこそいねめ 羅臼町 ひかりごけ洞窟前 松浦武四郎文学碑 武四郎野宿の地に作家戸川幸夫が揮毫した 松浦武四郎は、蝦夷地の探検をはじめ、日本の深山の探査や和歌、漢詩、絵画など多方面にわたって、多芸多才ぶりを発揮。 文政元年(1818)、伊勢国須川村(松阪市(旧三雲町小野江))に地士の4男として生まれる。 28才の年初めて蝦夷地へ渡り、38才のとき蝦夷地御用御雇い入れの命を受け、幕府の役人として更に蝦夷地の調査を行い「東西蝦夷山川地理取調図」28冊などを刊行する。 維新後は蝦夷地開拓御用掛、更に開拓判官となり北海道名、国名、郡名の選定にあたり、北海道命名者として従五位開拓判官に任命され不朽の名誉を残したところから「北海道の名付け親」と称されている。 |
森繁久弥 昭和35年に上映された 「地の涯に生きるもの」は「オホ−ツク老人」が原作である。 しおかぜ公園 森繁 久彌(もりしげ ひさや、1913年5月4日 - )は、日本の俳優。大阪府枚方市出身。旧制北野中学(現・大阪府立北野高等学校)、早稲田第一高等学院(現・早稲田大学高等学院)卒業後、早稲田大学商学部中退。舞台俳優、NHKアナウンサーを経て本格的な俳優活動に入る。NHKアナウンサー時代には満州電信電話株式会社の放送局に勤務。『知床旅情』でシンガーソングライターとしてもデビューしている。『森繁自伝』で日本文芸家協会の推薦を受け会員となった。徹子の部屋第一回放送分のゲストは彼であった。 |
知床旅情歌碑 知床の岬に はまなすの咲く頃 思い出しておくれ 俺たちのことを 飲んで騒いで丘に登れば 遥かクナシリに 白夜は明ける 森繁久弥 作詞作曲 |
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知床の賦 遠いはるかなる地の涯 日本に最後まで残さされた古き世界 私は見た とぎすました氷の牙を 私は聞いた冷たい朔風の挽歌を 私は知った オホーツクの海の壮厳な美しさと悲しみを とりけものたちは 彼らの習慣にしたがって 生きてそして死んでいく 人間もこの半島に生きる限り同じだ (羅臼町 しおかぜ公園) |
戸川幸夫文学碑 戸川幸夫(とがわ ゆきお 1912年4月15日-2004年5月1日は小説家、児童文学作家。佐賀市に生まれる。旧制山形高等学校に入学したが健康を害して中退。その後、東京日日新聞(現毎日新聞)に入社。社会部長、毎日グラフ編集次長。動物を主人公とした「動物文学」「動物小説」というジャンルを確立させ、椋鳩十と並び称される。イリオモテヤマネコが発見されるきっかけとなった標本を入手するなど、動物に関しては正しい観察、知識を元に物語を書いていた。特に、闘犬に関する作品が多い。ルポルタージュ、戦記物語などの作品もある。92歳で急性腎不全のため死去. http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E5%B7%9D%E5%B9%B8%E5%A4%AB(引用先) |
根室 | |
「ここに幸あり」音楽碑 日本を代表する名曲「ここに幸あり」は、根室出身の作詞家高橋掬太郎氏と作曲家飯田三郎氏のコンビで作られたものです。二人の功績を称え、その栄誉を永く後世に伝えるため、昭和60年8月に建立されたのが、根室市役所前庭にある音楽記念碑です。 音楽碑には、夜間でも見える、ハマナスや、白鳥と流氷、根室市の花ユキワリコザクラ、更に、七色の虹を配した根室の四季をデザインしたステンドグラスの透かし絵など工夫されています。 |
作詞:高橋掬太郎、作曲:飯田三郎、唄:大津美子 1 嵐も吹けば雨も降る 女の道よ なぜ険し 君をたよりにわたしは生きる ここに幸あり 青い空 2 誰にもいえぬ爪のあと 心に受けた恋の鳥 ないてのがれてさまよい行けば 夜の巷(ちまた)の風哀し 3 いのちの限り呼びかける こだまのはてに待つは誰 君に寄り添い明るく仰ぐ ここに幸あり 白い雲 |