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北海道の文学碑

日高路(勇払・穂別・平取・二風谷・静内・二風谷・浦河・襟裳岬)
(国道235・236号線)

浅野晃文学碑
われらはみな 愛した 責務と 永訣の時を
(英雄の一節より)


浅野晃文学碑
昭和44年6月8日建立
苫小牧市勇払原野まきば遊園地 日本製紙の敷地内

明治34年滋賀県生まれ 昭和20年から戦後5年間勇払在住
この地方の文化活動に大きな刺激を与えた
勇払小学校を始め、苫小牧高専の校歌も作詞した。
開拓使三角測量勇払基点
開拓使三角測量勇払基点
苫小牧市字勇払132番地49
開拓使は道路や鉄道建設、炭田や鉱山開発のため正確な北海道地図の必要性を痛感して1873(明治6)年3月、お雇い米国人ジエームス・アール・ワッソンを測量長に命じ、三角測量法による地図作りを開始した。ワッソンは当初石狩川上流域に基線を求めようとしたが適地が得られず、6月、勇払と鵡川間に基線を設定、両基点に目標台と標石を建て測量に入った。開拓使三角測量勇払基点この基点は風化を防ぐため地中にあるが三角にデザインした上からのぞきこむことができる。明治6年(1873年)に勇払と鵡川を結ぶラインが基点と定められて石柱と目標台が建てられ、明治8年から測量が始まった
蝦夷地開拓史跡公園
旧蝦夷地開拓移住隊士の墓 (蝦夷地開拓史跡公園)
1800年徳川幕府の命により北方警備及び
蝦夷地開拓のために八王子千人同心が勇払に移住した。
これが苫小牧発祥の地となった。

汁長・河西祐介の妻・梅は赤児を残して25歳で病死。
東蝦夷地における和人最初の墓と言われる。
苫小牧市字勇払132-38(勇払史跡公園内)
Gamu 様より補足を頂きましたので全文を紹介します。
投稿日:2009/10/05(Mon) 14:24

(北海道開拓の先駆者となった勇払・白糠に入植した八王子千人同心の歴史をもっと多くの人に知ってもらいたいと、勇払千人隊芸能保存会の木津繁さんと、PTA副会長の林広之さんより、一般の人にも解りやすい内容で、勇払千人同心(勇払千人隊)の歴史をDVDで製作したいと企画をいただき、
勇払会所跡の碑・蝦夷地開拓移住隊士の墓・勇払浄生寺・勇武津資料館・勇武津不動堂の協力で撮影を開始し収録時間20分間の動画・BGM・ナレーションのDVD完成となりました。
勇武津資料館と勇払浄生寺にDVDを寄贈し、勇払小学校で授業での使用を検討中です。
現在、沼ノ端のセブンイレブン裏の山下理容店と、
勇払のキング理容店と、
勇払のDVDレンタル&宅配・映像編集Gamuで
(無料で鑑賞)できるようにしています。
成田れんこ文学碑
金と虹の落ち葉が雲の奥に散る 

日高の山の胸奥にちる

穂別町 町民公園(神社横の小高い公園の中)  
成田れんこ文学碑
浅野に師事し、地元で文学運動を推進していた。
昭和2年苫小牧生まれ、18歳のときに父親の転勤で穂別に
住む。さまざまな病魔と闘いながら、短歌。詩と意欲をもやしていた。
32歳で没する。

昭和58年5月10日建立
松浦武四郎碑
えみしらもしらぬ深山に分入れば
ふみまよふべき道だにもなし
松浦 武四郎文学碑 
厚真町 富里(235号線が1065号線に別れる橋の所)
何もない道を走ってまつうら橋の手前



秋なれば山ちかぢかと見えて来ぬ
なつかしき山見えてきにけり


浅野晃文学碑 
穂別町 町民公園 
神社の横の小山の上に公園がある。
「浅野先生コノ地ニ遊バレタノハ昭和20年ノ秋カラデアル。ワレワレガ穂別ノ空ノ美シサヲ知リ穂別渓谷ニ住ムコトノ喜ビヲ感ズルヨウニナッタノモ先生ノ歌ガ穂別ヲ歌ッタカラデアル。」

(碑文前の説明)
浅野晃文学碑
浅野晃は勇払にいた間、文学や文化面で各地を訪れ
指導したが、とりわけ穂別との縁は深かった。
村の理想郷を目指した横山正明村長は宮沢賢治の崇拝者だったが浅野にも心酔するようになる。
金田一京助 物もいわず声も出さず石はただ 
全身をもっておのれを語る


金田一京助文学碑
(平取町二風谷) 

昭和43年10月6日建立
アイヌ文化資料館前
金田一京助
富川(門別町)を河口とする沙流川は金田一のアイヌ語研究第一歩の地である。
アイヌ語の実地調査を目的にはじめて来道したのは明治39年(1906年)七月24日である。
アイヌの都である平取に達し、老翁カネカトクの口から初めてユ−カラ・
チャランケの言葉を採録したが、ただの一言もわからなかったと言われている。
「私は二人の学生と、アイヌの老婆のコポアヌを案内として、
日高の紫雲古津村(平取村しうんこつをたったのである。
沙流川の上流に、その人ありと聞いて、十年、ついにたづねる機会を得なかった
私の積年の願いをはたすために、アイヌ第一の叙事詩人、ヌツキベツ(貫気別)のツナレを訪う旅であった。」
(太古の国の遍路から)

このときの旅が縁となり、金田一の研究を助けた代表的な人物・ワカルパに出会う。
違星北斗
沙流川は昨日の雨で水濁り
コタンの昔囁きつつ行く
平取に浴場一つほしいもの             
金があったらたてたいものを

違星北斗文学碑 (いぼしほくと)
昭和43年11月5日建立
平取町二風谷 二風谷小学校前庭.。金田一京助揮毫
違星北斗は明治35年に余市で生まれた。
違星の姓はエカシシロク(違い星)に由来してるという。

日高の平取で保育園勤務 薬行商などをする
アイヌ民族の差別にはげしい怒りをなげながら「吾アイヌ也」と自覚して生きようと願いつつ、28歳の若さで没す
大正14年と昭和2年は生涯の重要な年だった。
前者は上京して金田一に会う。
後者は平取のバチェラ−園(幼稚園)で日雇いとして働き、年長の八重子を知った。
「バチェラ−八重子さんのアイヌ語まじりの伝道ぶり、その講和の様子は神のように尊かった」(北斗の日記から)

北斗25歳・八重子43歳。

「彗星の如く現れて、彗星の如く永久に消えた違星生」
(金田一・「違星北斗」)より。
静内−桜並木とサラブレットの町
船山馨
「お登勢」は
淡路島の貧農の娘・お登勢は、徳島藩の家臣・加納家に奉公に出た。勤王の志士で陪臣の津田貢と出会う。分藩運動に起因する稲田騒動・津田への想いだけを頼りに未開の地北海道静内へと移住する。
夫の津田貢は開墾生活に耐えられずに志津と出奔して
石狩の地で果てる。お登勢は健気に激しく生きる。やがて志津の弟・睦太郎と運命的な出会いをする。
明治11年二人は静内・御園の小屋で祝言をあげた。
船山馨(ふなやま・かおる=大正3年、北海道札幌市生まれ。昭和56年没) 1937年に北海タイムス(のちに北海道新聞に統合)の社会部学芸記者となる。1939年にふたたび上京し、四社連合に勤める。享年67。
船山馨・故郷を語る
「年をとるにつれて、人の心は現在や未来への展望を失って、ともすると過去へ向かいがちになる
初めて札幌へ出かける人に、どこを見ればいいかと訊ねられた場合、私は必ず植物園とビール園と創成川畔だけは指摘する。大通公園や中島公園は全国的に知れわたっていて、いまさら指摘の必要がないとも思えるからである。もっとも、その大通公園にしても、内地からの旅行者の殆んどが、3、4丁目あたりだけを眺めて通りすぎてしまうらしいが、本当の大通の姿は西へ入るほど深まってゆく。3丁目4丁目あたりは、いまでは人工的になりすぎた。」
お登勢
春の訪れとともに、お登勢はふたたび木を伐り、
根株を掘り起こし、草を焼き土を耕す毎日のなかに埋没して行った。 静内から新冠にかけては 桜が多いが、いつ花が咲いていつ散ったかも、お登勢は気づかす゜に過ごした

船山馨(ふなやまかおる)文学碑 
昭和50年5月11日建立
静内町御園高台
小田観蛍文学碑
大きチャシ蝦夷のいくさのをたけびの 
歴史をここに海は素蒼し


小田観蛍文学碑
静内町 真歌山公園
小田観螢(おだかんけい)

1886(明治19)年11月7日〜1973(昭和48)年1月1日
本名哲弥。岩手県宇部村(現久慈市)に生まれ、1900(明治33)年両親とともに小樽に移住。奥沢小学校の代用教員となり、1951(昭和26)年札幌短期大学教授にいたる、50年余の教員生活を送る。1909(明治42)年には富良野の小学校に勤務。1915(大正4)年太田水穂が短歌結社誌「潮音」を創刊するや率先して加盟する。
八木栄一郎(やぎえいいちろう)文学碑

歌山上りて来ればおもはざる
残照が見ゆ遠き渚に


八木栄一郎(やぎえいいちろう)文学碑

静内町 真歌山公園
森みつ文学碑
花は地にひらき ひかりを湛え
風雪に耐えしものいま 力みちて立つ美しき(うるわしき)国 

「北海道賛歌」より
森みつ文学碑
  新冠町 郷土資料館前 
昭和57年11月3日建立
大正11年3月22日札幌うまれ、昭和27年から新冠在住

小田観螢
海近き鉄路どこまであやふきに
真闇の灯群浦河は都市


小田観蛍文学碑
浦河町 町役場前庭 
昭和63年7月1日建立
北の零年
北の零年「静内」の歴史
「北の零年」

吉永小百合主演の「北の零年」が北海道のロケ地として
話題を呼んだ。
私も映画を見に行ったけれど北海道に住む者として
吹雪の中で命が助かるなんてドラマだと思った。

開拓者集団上陸記念碑から稲田家の屋敷までの
距離はかなりのものである。
馬を使わない限りは無理だろうと思った。
開拓に生きるものは過酷な自然との戦いで
あるが立ち向かって勝利を収めたのだ。

(稲田家屋敷跡)(静内町字目名314−1)
開拓者集団上陸記念碑(静内町春538)
開拓者集団上陸記念碑(静内町春538)
明治3年、版籍奉還がもとで起こった庚午事変の結果、北海道静内郡と色丹島の開拓を命ぜられた稲田邦植と137戸、546人の旧家臣たちが三隻の汽船に分乗し洲本港を出発。

「すべてゼロから始まる」

新政府の処分は、徳島藩と稲田家側の喧嘩両成敗とでもいうべき処置であった。
静内郡移住開拓を命じられた稲田家臣団は明治4年、大阪丸、大有丸、鍋焼丸の三隻の雇汽船に米麦・農具・家具などを満載し洲本港を出発。
総勢137戸546人が今の元静内に上陸したのは同年5月2日のことであった。
この地は、将来きわめて有望であるとの報告により移住を決意した稲田家臣団であったが、多くの家臣のうちには、あながち移住を希望した者ばかりではなく、なかには、とまどい尻込みする者もあったといわれる。(説明文より)
♪ 何もない春です・・ではない襟裳岬
襟裳岬歌碑
襟裳岬歌碑
昭和36年
丘灯至夫作詞、遠藤実作曲、島倉千代子唄
♪ 風はひゅるひゅる 波はざんぶりこ
誰か名前を呼んでるような…
襟裳岬歌碑
襟裳岬歌碑 岡本おさみ作詞・吉田拓郎作曲・森進一唄
♪北の街ではもう 悲しみを暖炉で
燃やしはじめてるらしい
理由(わけ)のわからないことで 悩んでいるうちに
老いぼれてしまうから 黙りとおした歳月(としつき)を
拾い集めて 暖めあおう
襟裳の春は 何もない春です

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