十勝・ふるさと銀河線 帯広市・陸別・置戸・池田・豊頃・中札内
国道 242号線
1989年6月4日、第3セクター(北海道ちほく高原鉄道)により北網北見と十勝池田を結ぶ鉄道が誕生しました。
池田 | |
吉屋信子文学碑 池田町清見が丘公園 昭和55年7月31日建立 吉屋信子(1896-1973・明治29年-昭和48年) 新潟県に生まれ、官吏であった父親の転勤にともなって栃木町(現栃木市)に移り、多感な少女時代をこの町で過ごした。新渡戸稲造の「女である前に一人の人間であれ」という一つの真理に目覚めた少女は、大正12年1月、永遠の愛友、門馬千代と運命的な出会いをする。それ以後、昭和48年7月、S字結腸癌によって鎌倉・恵風園病院にて歿するまで、女流作家吉屋信子の生活は彼女と共にあった。77歳で死去。 |
石狩と十勝の国境をつらぬいて、汽車の線路は、幾重にも大きい曲線を地に描いて 荒涼たる平野へと走る。 嗚呼、荒涼 雄大 冬の平野よ 緑は月の光に照らされた雪の積もった平原を見渡して、胸に熱い泪を覚えた。 「地の果てまで」より 碑文の裏 私が大正八年、朝日新聞の懸賞小説に当選した作品。 「地の果てまで」を書いたときも北海道で書いた。 23歳だった私は皮革会社に勤務していた十勝の池田町の 兄のところに、アカシアの花がきれいだったそのときの5月に行き、 7月までの3ヶ月間で書きました。 |
陸別町 | |
徳富蘆花文学碑 北海道十勝の池田駅で乗換えた汽車は、秋雨寂しい利別川の谷を北の北へまた北の北へとって駛つて、夕の四時陸別駅に着いた。明治四十三年九月二十四日、網走線が陸別まで開通した開通式の翌々日である。「みみずのたはごと」の中の「関 寛翁」から 碑文の裏 碑文は蘆花が寛斎の招きで妻子を伴い、陸別を訪れた場面だがこの作品によって優れた蘭方医であり高潔で開拓者であった寛斎の生命は永遠のものとなった。さらに国民作家、司馬遼太郎が小説「胡蝶の夢」によって寛斎の魅力を引き出し、陸別の風土を見事に捉えてくれたことを喜ぶ。 |
陸別駅前広場 徳富蘆花 (1868~1927) 明治、大正期の小説家。本名は健次郎。 熊本県水俣の惣庄屋兼代官をつとめる名家に、漢学者の一敬を父、蘇峰(本名、猪一郎)を兄として生まれる。少年期に京都同志社に学び、いったん熊本に戻った時期に受洗。後に同志社に復学したが、新島襄の義理の姪との恋愛をとがめられて、上京。「不如帰」で 一気に文名を得た。その後、富士山登頂中に人事不省に陥り、回復の過程で「再生」を体験。パレスチナへの巡礼とトルストイ訪問などを経て半農生活に入り、特異な宗教的な確信へと傾斜していった。 |
関寛斎の碑 陸別町 正見寺境内 |
諸ともに契りし事は半にて斗満の露と消えしこの身は 大正元年十月十五日 八十三翁 白里辞世 |
母と死別、関家に育てられる通称関斎、維新後は寛と改名。十八歳の寛斎は佐藤泰然の「佐倉順天堂」へ入門した。「佐倉順天堂」の治療は当時の最高水準を極めていた。若き寛斎の記述した「順天堂外科実験」に手術例が詳しく記載されているという。手術はいずれも麻酔薬を使わない手術であった。 明治維新の戊辰戦争の従軍、徳島での40年に亙る医療活動の日々を経て、72歳の明治35年。札幌農学校で学んだ四男又一と共に陸別開拓へ。寛斎は、その頃の心境を「世の中をわたりくらべて今ぞ知る阿波の鳴門は波風ぞなき」と、歌に残している。寛斎は牛7頭・馬52頭をもって、1ヘクタールの開墾を行った。大正元年10月15日、寛斎は自らの夢を又一に託して、斗満の地に果てた。 「翁が晩年は家庭における父子意見の衝突だった。 父は豊頃の二宮農場の営農方法風に与えんと欲し、子供は米国風に富めることを欲した。82歳で10月15日、服毒自殺 |
関寛斎碑 我が身をば焼くな埋めむなそのままに斗満の原の草木肥やせよ 明治35年、72歳の関寛斎は斗満原野の開拓を志す。 千葉県生まれ 1830-1912 蘭法医学を学び、阿波藩御典医、軍医、 開業医として活躍した |
『胡蝶の夢』を連載中だった司馬は、関寛斎が開拓した陸別を訪れる 陸別開拓の祖「関 寛斎」の没後100周年を記念して 2012年10月2日 司馬遼太郎記念碑除幕(寛斎ひろば・陸別町駅前多目的広場) 司馬遼太郎記念碑 |
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ふるさと銀河線 |
銀河の森 天文台 |
置戸町 | |
長田幹彦(ながたみきひこ) 文学碑 再会の松吹雪する春五月 置戸町 置戸駅構内 昭和30年6月10日建立 |
長田幹彦1887~1964。東京生れ。明治44年英文科卒。北原白秋、吉井勇ら耽美派の仲間であった兄秀雄の影響で、早くから文筆活動に入った。早大在学中、放蕩の味を覚え、北海道流浪体験に基づく『零落』で文壇に登場、また祗園を背景にした情話文学の流行をもたらした。明治42年9月北海道に渡り旅役者一行と各地をまわる。尾崎紅葉の名作「金色夜叉」のあとに続く長田幹彦の「続金色夜叉」は置戸を舞台に展開される |
中札内 大樹町 | |
「はいの まだ人間のものではござるませぬ。 神様の土地や思えば神様の土地 獣のものと思えば獣のものでござるまする」 「はあてね?」 [木や草のものと思えば 木や草のものでござるまする」「なるほど・・・」 「人間の汗を流し 涙を流し 苦労に苦労を重ねて拓きまする。拓き上がって初めて人間の食うものがとれまする。 そこで初めて人間の土地になるのてござるまする」 (吉田十四雄 「人間の土地」より) 吉田十四雄文学碑 中札内道の駅 明治40年2月三重県生まれ。大正10年一家は中札内に入植。その後農業を学び北見農業会に就職 農業経験を深める。 「一切が夜明けまえの、一時なのであった」 75歳、札幌で没する。第11回(1940年)「河骨」で芥川賞。 |
晩成社跡地 広尾郡大樹町 晩成社は会社組織の開拓団で、明治15年(1882)、現在の静岡県賀茂郡松崎町において創立。社長依田園(のち善六)、副社長依田勉三で発足。資本金5万円15年間に未開地1万町歩(ha)を開墾するのが事業目的であった。 オベリベリ(帯広)に入地以来、勉三は渡辺勝、鈴木銃太郎とともに事業に努力するがはかどらず、明治26年(1893)晩成合資会社と改称し、牧場経営のほか多くの事業を計画した。 |
開拓者・依田勉三 ますらをが心定めし北の海風吹かば吹け浪立てば立て 帯広で開墾を始めたとき30歳。 トノサマバッタの大発生 明治初期は、このバッタが大群で押し寄せ作物を食い荒らす被害が道内各地で相次いでいた。明治政府は巨額の予算を投じて駆除に乗り出したほど。発生源は十勝内陸部の産卵地。このため帯広に拠点を構えた晩成社はこの年、八月の数日間にわたって襲われている。作物は壊滅状態となった。 「晩成社にはなにも残らなかった。しかし十勝野は…」との言葉を残し大正14年12月に73歳で死亡した。晩成社は昭和7年(1932)に解散し、50年の歴史を閉じている。 |
開拓者・依田勉三が住んでいた跡地 大樹町生花 晩成社跡 帯広への入植第一号で実際に開墾生活に入ったのは 明治16年で31人(13戸) 初年度に栽培した作物はコメ、麦、アワ、豆といった穀類に加えナス、キュウリ、スイカなどを植える 「土地条件は肥沃(ひよく)とは言えず、開墾以来わずかもたたない八月に、移民農家の三戸が逃げ帰った。 帯広の地名は、アイヌがそこを オベリベリ(湧き水が流れる口)と 読んでいたのにちなみ、 勉三が発音から命名しました。 創業の苦難を克服し、亜麻の製糸工場を造り、 七重畜産を創立、牛肉、水産物、カニの缶詰を始めて手掛けた。 餌がないことで多くの牛も失ったために 牛のお墓もあった。 「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」 |
豊頃町 | |
蝶伏のうららかに 咲くやはまなすえぞきすげ にほふ岸べのゆかしきに うべ春しほの寄せ来る 佐藤春夫文学碑 昭和41年7月25日建立 豊頃町長節湖畔 原生花園 明治25年(1892年)和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市) 春夫の父、豊太郎は明治31年に新宮から十勝に開拓にくる。 春夫の実弟竹田夏樹は父の開墾地を郵便局長をしながら守りぬいてきた。 詳しくは「わが北海道」に書かれている。 友人の小説家谷崎潤一郎の妻・千代に恋慕する。 谷崎と千代子の離婚成立後、三人連名の挨拶状を知人らに送り、「細君譲渡事件」として当時センセーショナルな反響を呼び起こした。代表作である「秋刀魚の歌」も千代への思慕が背景にある 昭和39年 5月 6日、自宅でラジオ録音中、心筋梗塞のため72歳で死去。(豊頃町 長節湖畔 原生花園) |
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新得町 | |
然別湖は大正(1925年)9月、このとをはじめて探検した十勝毎日新聞、社長、林豊洲の献身的努力により広く紹介され、観光開発の先駆となった。 ついて昭和9年、(1934年)12月、豊洲の熱心な運動が実を結び、大雪山公園の指定に成功した。(中曽根康弘書) 然別湖 |
神田日勝記念美術館 田 日勝(かんだ にっしょう、1937年12月8日 – 1970年8月25日)は日本の画家。 東京市板橋区練馬(現東京都練馬区練馬)生まれ。8歳のときに戦火を逃れる為に一家で北海道鹿追町へ疎開し、そのまま定住。農業をするかたわら独学で油絵をはじめ、その後、平原社美術協会展(平原社展)や全道美術協会展(全道展)で活躍。北海道を代表する画家として評価を得つつも、32歳の若さでこの世を去った。 ベニヤ板にペインティングナイフやコテで描く力強いタッチの具象画で有名。農家でもあったことから、農耕馬や牛などをモチーフにした画も多い。 (ウィキベテイァから引用しました) |
帯広市 | |
冬の皺よせいる海よ今少し 生きて己の無惨を見むか 中城ふみこ文学碑 帯広市 十勝護国神社境内 妹の婚家のある小樽から札幌医大への通勤途中、車窓から見える海から出た句 大正11年富裕な呉服店の長女として生まれ、戦中である昭和十 七年の結婚。三人の子供に恵まれた幸せな日々。 しかしそんな幸福が崩れ始め、そんな日々の中、歌を始める。 離婚、幾つかの恋愛、別れ、そうして二度にわたる乳癌摘出手術。 それでも激しく恋の炎を燃え立たせる。 再手術のため札幌医大病院に入院。 病状の進行につれ痰や血痰が出る中、ふみ子は死を意識し、おもいたって歌に打ち込むことになる。 折しも目にした雑誌「短歌研究」が第一回新人五十首募集に応募。 特選一席に「乳房喪失」と題され 編集長中井英夫が強く推して入選。 |
母を軸に子の駆けめぐる原の晝 木の芽は近き林より匂ふ 中城ふみ子文学碑(帯広市 緑が丘公園) ふみ子没後歌碑建立委員会によって建てられた。 御影石です 昭和58年8月3日建立 昭和二十九年八月三日、死去。「死にたくない!」と口にしつつ。 32歳の生涯を閉じた。 若月彰が彼女をモデルとした「乳房よ永遠なれ」は映画化。 渡辺淳一の小説「冬の花火」は、中城ふみ子を モデルにした小説である。 |
依田勉三 帯広市中島公園 紀元二千六百年二月十一日建立 題字 正二位勲一等 男爵 一木喜徳郎 篆額 正三位勲一等 尾崎行雄 撰文 従二位勲一等 男爵 佐藤昌介 書字 帯広市長 正六位勲五等 渡部守治 銅像製作 東京市 田嶼碩朗 建設 帯広市 中島武市 |
「開墾のはじめは豚とひとつ鍋」 (帯広市東10条南5) 帯広発祥の地、記念碑 功業不麿 依田勉三君ハ伊豆ノ人夙ニ北地開墾ノ志アリ明治十五年晩成社ヲ組織シ自ラ一族ヲ率ヰテ此地ニ移住ス凶歳相次キ飢寒身ニ迫ルト雖モ肯テ屈撓セス移民ヲ慰撫激勵シテ原野ノ開拓ニ努メ更ニ水田ヲ闢キ酪農事業ヲ興シ諸種ノ製造工業ヲ試ムル等十勝国開発ノ翹礎トシテ克ク其範ヲ示ス十勝国ノ今日アルハ君ノ先見努力ノ賜ナリ岐阜縣人中島武市此勞效ヲ欽仰シ私財ヲ投シテ之ヲ永遠ニ讃ヘントス誠に宜ナリト言ウヘシ |
宮沢賢治文学碑 ああここは すっかりもとの通りだ 木まですっかり もとの通りだ 木は却って小さくなったようだ みんな遊んでる あああの中に私や私の友達が いないだらうか (虔十公園林より) 帯広市 中央公園 宮沢 賢治(1896年8月27日 - 1933年9月21日)は、日本の詩人・童話作家・農業指導家・作詞家。 昭和8年(1933年)9月21日に急性肺炎で死亡した。 享年37歳。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。生涯、独身であった |
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六花亭の本社 帯広市 |
六花亭 |