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北海道の文学碑

松前・江差街道−函館〜熊石まで
国道228・227・229号線
 松前・北斗・江差町

松前は蝦夷地の古都であり、江差は商都、かってこの地方の人々は(上場所)と呼んだ。
いわば松前国(まつまえのくに)の歴史街道である。

ニシンで繁栄を誇っていた江差は、松前藩の大きな経済の支えだった。
「松前を蝦夷地の京都とすれば、ここは大阪といったところであろう。
商人の街、庶民の匂いの強い街といえよう」(更科源蔵ー北海道の旅)

村上清一文学碑
海底下の列車のひびきも聞こえきて
白神岬はさざ波の列

村上清一文学碑
松前町 白神岬国道駐車場
伊藤整文学碑
蛙の声が聞こえ
星空がきらめいて時が移り
私が歩いてゐる。
いま私は生きているにちがひない


伊藤整文学碑
松前町白神 松前町立白神小学校校庭
昭和57年8月 建立・本人はここの学校には通っていない。
(軒を並べた家々ではなく白神小学校との案内の標識のある所から入っていくと高台に学校がある。
生憎の雨で碑がはっきり写っていないのが残念)
伊藤整は1905年1月16日、北海道松前郡炭焼沢村で生まれる。本名は整=ひとし。父昌整は広島県三次出身で、明治34年、海軍水路部から臨時測量員をなり、半年たってから松前白神小学校の代用教員なり、炭焼沢村に移る。やがて準教員の資格をえて、同じ村の漁夫・鳴海福次郎の娘・タマと結婚する。31歳の時である。19歳のタマは頭がよく働く、利けない女であった。やがて旭川の補充大隊に所属する。
「日露戦争に従軍後、塩谷村(現在の小樽市塩谷町)の役場につとめ、同村に一家をかまえた。(教員は父・昌整一人で生徒は10人ほど分教場によると「静かに暮らしたい」というのが教員を選ばせ、山奥の地に赴任した理由になっている・小樽市塩谷2丁目489番地)

「私の生まれたところは、北海道の最南端、白神岬のある白神村である。そこは昔の松前藩の城下町であった福山町から近いところであった。今、福山町は松前町と名前を変え、白神村はその字の一つとなった。
白神岬は灯台のある淋しい村で(中略)私はこの村で生まれたのだが、何の印象も持っていない。しかしここは私の母の生誕地であり、今も親戚が何軒かあるので、生まれ故郷はそこだという気持ちはある。」

(随筆「小樽・白神岬」より
岡田三郎文学碑
この世に生きのびて行くうえに、何をめざし、何に救いをもとむべきか、想いきわめようとするさえ身の程知らぬおこの沙汰であり、かつまた自分ごときに到底考えおよびがたき難事ではあるが、おおかたは、その日暮らしの生計にいそしむ市井人に伍し、市井ありきたりのままなる悲喜憂楽の人情を虚心にわかちあうことも得れば、そのときすくなくとも我が生き行く生に意義あるかと感じなされ、業苦の身も一時はすくわるるがようなる喜びがありとなすはこのほどの所存である。岡田三郎記念碑
松前公園・第二桜見本園
「北の寒い海港(小樽)への旅立ちの日は吹雪だった。物凄い荒海の中へ汽船が黒煙をあげて進んでゆくと、母は狂乱のように藁沓をつきかけ船の見える丘へ一気に駆け上っていった(母より)

岡田三郎1890〜1954。
家業は大網元であり回漕であったが、明治の世になり鰊の不漁と交通の要衝からはずされたために、昔は蝦夷随一の城邑とされた松前城下もろとも滅亡してしまった。(郷土についてから)
そのために4・5歳のころ別荘も人手にわたり、小学校に通う時分には町から半里も離れた山麓に住む。
問屋画家志望の後、早大文科入学、在学中『涯なき路』『影』を発表して文壇にデビュー。大正8年卒業後、博文館で「文章世界」の編集に従事、のちフランスに遊学する。震災直前に帰朝し、軽妙な、ひねりのきいた短編小説「コント」を紹介、提唱した。
松前城 松前城

北海道の古都である。
最北の城郭を持った松前藩の城下町であり、ゆえに北の小京都と呼ばれ250種1万本の桜の名所としても名高い。
専念寺には北進近江商人先達物故者之碑があるように
松前藩と京都との強い結びつきは近江商人の活躍によるもの。
松前藩が成立したのは豊臣秀吉から御朱印状を得たときで、のち徳川幕府から黒印状をうけて徳川幕府の一員となり、慶長5年(1600年)に福山城を築く。
徳川幕府の体制が固まりつつあった時代、蝦夷地の松前藩では大千軒岳の砂金発掘で沸いていた。
そこにキリスタンが流れ込んできた。

松前城の最後を壮絶に演じたのは函館戦争における攻防である。
北斗市
三木露風文学碑
 日は輝やかに沈黙し 時はおもむろに 移り行けり
美しき地上の 断片のこ゜とく 我命は 光の中に いきづく

昭和46年5月30日建立
(北斗市上磯町渡島当別 トラピスト男子修道院前庭)
三木 露風(みき ろふう、1889年6月23日 - 1964年12月29日)は兵庫県揖西郡龍野町(後の龍野市、現在のたつの市)出身の詩人。本名は三木 操(みき みさお)。
小・中学生時代から詞や俳句・短歌を新聞や雑誌に寄稿、1918年ころから鈴木三重吉の赤い鳥運動に参加し童謡を手掛ける。31歳 の時、北海道トラピスト修道院の講師となり、4年間勤める。 母「碧川かた」は、龍野の名家、三木家に嫁ぎますが、「露風」が幼いころに離別し、舅に離婚を言い渡され、弟を連れて鳥取に帰る。露風は祖父制(すさむ)に養育される。「かた」はその後、再婚し大正から昭和にかけて婦人参政権運動を展開した近代女性でした。「赤とんぼ」の根底には、幼少で生別した母への一途な思いが秘められており、「かた」は「赤とんぼの母」とも呼ばれています。1964年12月21日にタクシーにはねられ、同月29日に脳内出血のため死去。享年75。
三木露風文学碑
詩集「寂しき曙」に収められた詩の一部が刻まれている。
修道院75周年を記念して建立。
滞在中に「野ばら」「赤とんぼ」を作る
江差町
百印百詩 頼 三樹三郎  松浦 武四郎 

百印百詩
雲石楼で多くの雅人が集い詩会が開かれた。三樹三郎が五言絶句の漢詩を詠み武四郎が詩に添える印石を彫り、一日で「百印百詩」を完成させた。 (江差町本町25)
頼 三樹三郎(らい みきさぶろう、1825年7月11日(文政8年5月26日) − 1859年11月1日(安政6年10月7日))は、幕末期の儒学者。名は醇。父は儒学者・頼山陽(三樹三郎は三男)。
京都三本木にうまれる。1843年からは江戸で儒学を学んだが、このとき、将軍の菩提寺である寛永寺の石灯篭を破壊するという事件を起こして退学処分とされた。
その後、東北地方から蝦夷地へと遊歴し、松前藩で探検家の松浦武四郎と親友となった。1849年には京都に戻り、再び勤王の志士として活動する。それでも、母が存命している間は母の注意もあって自重していたが、やがて母も死没すると、家族を放り捨てて勤王運動にのめり込んだ。
大老の井伊直弼から梅田雲浜・梁川星巌・池内大学と並ぶ危険人物の一人と見なされて安政の大獄で捕らえられて江戸の福山藩邸において幽閉される。福山藩主の侍講・石川和助は、父・頼山陽の愛弟子であり、三樹三郎を厚遇すると同時に必死で助命嘆願を行った。だが、幕府の厳しい姿勢は変わらず、間もなく江戸小塚原で斬首されてしまった。
菅江真澄文学碑 

すくも焚くけぶりのすゑも冶れる
かぜにしたがふ浦の夕なぎ

(江差町中歌町江差家前)

菅江真澄(すがえますみ、宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日(1829年8月18日))は、江戸時代後期の旅行家、博物学者。
各地をしばしば巡って紀行を執筆。1783年故郷を出奔。以来、信州、東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねる。

旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。彼は、本草学を下にして、多少の漢方の心得もあったという。著述は約200冊ほどを数え、「菅江真澄遊覧記」と総称されている。
菅江真澄文学碑
江差追分の碑 江差追分

鴎のなく音にふと目をさまし
あれが蝦夷地の山かいな

平成16年9月17日
遠い昔、信州の浅間山麓に生まれた馬子唄は北前船に乗ってこの地にやってきた。
厳しい北国の暮らしに耐えながらこの唄を守り育てた先人の心を受け継ぎ、唄の輪をさらに広げて後世に伝えることを願う
われわれの熱い思いをこめてこの碑を建てる
江差追分会館
檜山郡江差町字中歌町193-3)
追分節は、江戸時代から信州中仙道で唄われた馬子唄がルーツ。一種のはやり唄として全国各地に広まり、越後に伝わったものは船歌として船頭たちに唄われるようになって、今から200有余年ほど前に北前船によって江差に運ばれてきたといわれています。
 さらに江差では、座頭佐之市がケンリョウ節と追分を融合させて独特の音調をもつ江差追分を誕生させた。

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