私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります北海道の文学碑のトップに戻ります

北海道の文学碑

日本海沿線 石狩から厚田・雄冬岬まで

石狩から国道231号線を北上するとやがて厚田に入る。
子母沢 寛の生誕地。
厚田は創価学会二代目会長戸田城聖や相撲の横綱、吉葉山もここで産まれた。

厚田村 厚田市街は石狩河口橋から23キロの地点にある。
古くからニシンの千石場所として栄え、1706年には松前藩が
運上屋を置く。人口5600人・1300戸の時代
厚田公園から村を見る
生前、三岸は「北海道のルーラン16番地」で生まれたと語っています。三岸の父母は厚田村で出会い、異父兄の小説家子母沢寛(本名梅谷松太郎)も厚田で生まれました。
弟の三岸はモダンな画家。唯一、昭和5年に三岸は子母沢寛の小説『笹川の繁蔵』の装丁と挿絵を描きました。これが生涯ただ一度の兄弟
  
石狩灯台と「喜びも悲しみも幾年月」の歌詞。
       作詞作曲 木下忠司
おいら岬の灯台守は妻とふたりで沖ゆく船の
無事を祈って灯をかざす灯をかざす。

冬がきたぞと海とり泣けば
北は雪国、吹雪の夜の
沖には霧笛が呼びかける
呼びかける。


物語は昭和7年、観音崎灯台で新婚生活を始めた夫婦が翌33年から、石狩灯台に勤務。戦争をはさんで、ひたむきに生きた灯台守夫婦の25年間を描いた。物語の最後の地は小樽、日和山灯台だった。石狩ロケには冬と夏に行われた。
当時の石狩は「陸の孤島」になる漁業の町。
住民が支援した(北海道新聞より引用)
石狩灯台と歌詞
子母沢寛の文学碑
箱館戦争の敗残者 
江戸の侍が 蝦夷石狩の
厚田の村に 
ひっそりと 暮らしていた。

「厚田日記」より(厚田公園)
昭和49年11月3日建立。
最初は今と別の場所に建てられたけれど、昭和53年に
厚田公園に移転された。
副碑に「歴史小説家、子母沢寛は(本名梅谷松太郎)明治25年厚田村に生まれる。親子の縁うすく生後まもなく祖父母の懐に育つ。(中略)大学を卒業後・新聞記者の世界に入り、幕末明治維新時代に興味を抱く。昭和12年(1937年)「新撰組始末記」を処女出版し、「勝海舟」「父子鷹」も注目されました。昭和37年第10回菊池寛賞を受賞。昭和43年七月19日神奈川県鵜の自宅にて永眠す。享年77歳

子母沢は「私の父というのは本当の父ではありません。私が入学のときは、もう60すぎで胡麻塩で、眉毛が長く延びた小柄な人でした。実母が、私を産んで、これを藁の上から、自分の縁つづきになってる人にもらってもらって、そのまま自分は村を離れて終わったのです。祖父母の実子として育てられ、産みの母のお乳というものは一滴も飲まずに育った。」

母の名前は梅谷石。父親は東京からの流れ者で伊平と言った。彼は生涯この父親を知らず、母の方はやがて金沢出身の橘岩松と駆け落ちをして、札幌で後の三岸好太郎を産む。子母沢の祖父、梅谷十郎は徳川の御家人で、彰義隊に加わり、敗れてからは榎本艦隊に加わり、五稜郭で戦った。そのあと逃れて厚田に来た。最初は土地の網本の用心棒などしたらしい。
夜になると子母沢を膝の間に入れて酒を飲みつつ江戸や彰義隊の話をした。十郎は厚田村の海の見える家で江戸を恋つつ、その思いを寛の耳に飽きることなく注ぎ込んだ。その孫が江戸文化の最後の残影と敗亡の美を書くことになろうとは、語り手は思いもしなかったのに違いない。(司馬遼太郎)
本庄睦夫文学碑 本庄睦夫「生誕の地」

今はロイズコ−ヒの玄関みたくなっていました
本庄睦夫は明治38年佐賀県から移住した旧佐賀藩士の子供として生まれた。

当別は農業開拓に有望なところだという。
石狩の倉庫建て替えの工事を請け負って、その資金を得る。
当別へ向かう道路開削からはじめた。
武士であったプライドを捨てて、汗を流さなければならない。
一同協力のもとでの工事であるが、元武士階級の人々には不慣れな作業であったろう。


「何のためか。生きるためだ」
「をこがましくも作者は「石狩川」の興亡史を書きたいと念願した。川鳴りの音と満々たつ洪水の光景、、、(中略)その土地の半世紀に埋もれた我らの父祖の 想いを覗いてみようとした。」
(あとがきより)

(自然との戦い、石狩川と人間との戦い。それは現在では考えられない死闘であった
高濱年男文学碑 高濱年男文学碑
 
わが橇の馬が大きく町かくす

(石狩市弁天町弁天歴史公園)

明治33年12月16日〜昭和54年10月26日
高濱年男は東京神田生まれ。俳句結社ホトトギス創立者、高濱虚子の長男である。東京改正中学校を卒業し、大正8年小樽高昭に入学。
年男が小樽高商に入学した年の11月に父の虚子が来道し、緑丘吟社の主催で歓迎句会が催され、小樽の俳句熱をいっそう高めることとなった。
大正13年小樽を去ったが、その後も虚子とともに何度か来樽している。

碑は小樽ホトトギス会によって建立。碑身は神居古潭産の石材。碑に刻まれた句は年尾が小樽高等商業学校在学中に詠まれたもの。
井上伝蔵文学碑 井上伝蔵文学碑

俤の眼にちらつくや
たま祭り


(石狩市弁天町弁天歴史公園)
秩父事件で秩父困民党会計長を務めた井上伝蔵

秩父事件は明治17年(1884)11月、生糸価格の暴落や政府のデフレ政策などにより困窮した農民たちが、自由民権運動の影響を受けた秩父困民党の指導のもとに武装蜂起した事件。
井上伝蔵は困民党の中心人物の一人で、事件後は名を変えて北海道に潜伏。
大正7年(1918)、北見にて、死ぬ直前に自分が井上伝蔵であることを家族に伝えた。


厚田村 創価学会碑 戸田城聖 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E7%94%B0%E5%9F%8E%E8%81%96より引用しました。

1900年(明治33年)2月11日 - 石川県に生まれる。後に、北海道厚田村へ移住。
1908年(明治41年) - 厚田尋常小学校に入学する。
1917年(大正6年) - 小学校の准教員資格試験に合格する。
1918年(大正7年) - 夕張の真谷地尋常小学校の代用教員として採用される。12月、夕張の真谷地尋常小学校の正教員試験に合格する。
1920年(大正9年) - 上京[1]。開成中学夜間部(のちの昌平高校)に入学する。
1925年(大正14年) - 中央大学予科入学。
1928年(昭和3年) - 牧口が日蓮正宗の法華講員・三谷六郎(素啓)に折伏されると、戸田も牧口とともに日蓮正宗に入信した。
中央大学経済学部入学。
1930年(昭和5年) - 牧口が『創価教育学体系』を著す(創価学会では、この日・11月18日を創立記念日としている)。
1931年(昭和6年) - 中央大学経済学部卒業。
1943年(昭和18年) - 治安維持法違反・不敬罪の容疑で、牧口とともに逮捕される。牧口は、1944年(昭和19年)11月18日に獄死[2]。
1945年(昭和20年)7月 - 豊多摩刑務所(後の中野刑務所)から出所する。
1946年(昭和21年)5月3日 - 創価教育学会の名を改め、創価学会を設立。
1949年(昭和24年) - 東京建設信用組合を設立。
1950年(昭和25年) - 東京建設信用組合が多額の負債を抱えたため、大蔵省から業務停止を命じられる。
1951年(昭和26年) - 宗教法人として創価学会を設立、創価学会会長に就任する。
1953年(昭和28年) - 東京都新宿区信濃町にあった元イタリア大使館武官邸を購入し、創価学会本部とする。
1958年(昭和33年)4月2日- 駿河台日本大学病院で死去。享年58。青山葬儀所にて葬儀が行われ、大石寺に埋葬される

厚田村 創価学会の碑 厚田村 創価学会の碑
厚田村 創価学会の碑厚田村 創価学会の碑 厚田村 創価学会の碑
厚田村 創価学会の碑 厚田村 創価学会の碑

私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります北海道の文学碑のトップに戻ります