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北海道の文学碑

氷点、大雪山のまち−旭川

戦前まで旭川は軍都であった。
第七師団の存在を抜きにしては旭川は語れない。
石川啄木が釧路に旅立つ前の日、明治41年1月20日に旭川による
JR旭川駅前の西武デパート(北西角)に宿泊地の碑がたっている。
52歳の陸軍省医務局長の森鴎外が函館、札幌、旭川へ。

徳冨蘆花文学碑
春光台腸断ちし若人の
偲びて立てば秋の風吹く 

徳富蘆花文学碑
旭川市 春光台 旭川実業高校敷地内
小説「寄生木」の主人公 小笠原善平を偲んで詠んだ歌碑 
徳富蘆花(とくとみ ろか、明治元年10月25日(1868年12月8日) - 昭和2年(1927年)9月18日)。横井小楠、門下の俊英であった父徳富一敬の次男として熊本県水俣に生まれる。兄は徳富蘇峰(猪一郎)。同志社英学校に学びキリスト教の影響を受け、トルストイに傾倒する。兄の下での下積みの後、自然詩人として出発し、後に『不如帰ほととぎす)』などの作品を残した。
明治40年、北多摩郡千歳村字粕谷(現・東京都世田谷区粕谷)に転居、死去するまでの20年間をこの地で過ごした。蘆花の死後、旧邸宅は夫人より東京市に寄贈され、現在は蘆花恒春園(面積約7万m2)として開放されている。

徳富蘆花文学碑
徳富廬花文学碑
蘆花 寄生木 ゆかりの地
旭川市春光町3区 春光台公園
蘆花 寄生木について

昭和33年6月25日建立
徳冨蘆花は、明治42年に『寄生木』という小説を発表しました。主人公・篠原良平が生まれてから27歳の若さで自らの命を絶つまでの生涯を描いた作品で、作中には乃木大将とわかる人物が登場するなど、当時話題となった小説です。小説の序文には、「真の作家は陸中の人篠原良平である」と記されています。実はこの篠原良平は山口村(宮古市山口)の実在の人物、小笠原善平です。小笠原善平が、政敵の陰謀による父の投獄、乃木大将の書生として仕えた年月、愛する人・勝子とのことなどを40冊の手帳に書き留め、これを当時の人気作家・徳富蘆花に託し、小説化を願い出たのです。
彫刻美術館彫刻美術館
彫刻美術館建物となっている「旧旭川偕行社」は
旧陸軍第七師団の将校たちの社交場として
1902年に建設され、師団関係者の会議、講演会、披露宴、宴会、宿泊などに使われました。
特に宿泊所として陸軍の医務総監であった森鴎外、ロシア文学者の米川正夫など多くの著名人がここを利用しており、皇太子時代の大正天皇や昭和天皇の来旭の折の行在所としても使用されました
井上靖記念館
井上靖記念館文豪・井上靖が旭川で生まれたことを記念して,1993(平成5)年7月24日に開館しました。展示室は井上靖の直筆原稿や著書,日常の愛用品,親交のあった芸術家の作品などが主に年代ごとに展示され,その生涯の業績を紹介しています。
(旭川市春光町5条7丁目)

井上ふみ
大雪連峰をはるか右に見ながら、ゆるやかな丘陵地帯を車で走っている時であった。
「ここまで来ると広くていいな」と靖は言った。
昭和54年11月「僕が生まれたのはどんな所か行って見ようよ」と私も同行した旭川であった。もう雪が降っていて、街路樹のナナカマドの実が雪を被って美しかった。 
        
「靖と旭川」より」     井上ふみ 
井上靖
(井上靖通り)
昭和を代表する国民的作家・井上靖は,1907(明治40)年5月6日,当時の旭川町第2区3条通16の2(現在の春光6条4丁目)の陸軍官舎で,父・隼雄,母・やえの長男として生まれました。旧第7師団の軍医であった父の仕事の関係で翌年には静岡県伊豆に移り住み,その後,沼津,金沢などで青年時代を過ごしました。金沢第四高等学校(現・金沢大学)時代は柔道に情熱を注ぐ一方,詩に興味をもち,同人誌などで詩を発表するようになりました。
1932(昭和7)年,京都帝国大学(現・京都大学)に入学,このころから,小説を書き始め,懸賞小説に連続して入選しています
1991(平成3)年1月29日,急性肺炎のため,多くの人に惜しまれつつ,83年の生涯を終えました
井上靖文学碑
井上靖文学碑
 市内中心部の旭川市4条通8丁目に設置されており,この碑文用に書き下ろされた詩が自筆文字で刻まれています
「私は十七歳の、この町で生まれ、いま、百歳の、この町を歩く。すべては、大きく変ったが、ただ一つ、変らぬものありとすれば、それは、雪をかぶったナナカマドの、あの赤い実の洋燈。一歩、一歩、その汚れなき光に、足許を照らされて行く。現実と夢幻が、このように、ぴったりと、調和した例を知らない。ああ、北の王都、旭川の、常に天を望む、凛乎たる詩精神。それを縁どる、雪をかぶったナナカマドの、あの赤い実の洋燈」
井上靖
自分が五月に生まれたということも、幼少時代の私にはすばらしいことのように思われた。
母が時に五月の旭川の、百花が一時に開く美しさを語るのを聞いたりすると、私は誰よりも恵まれた出生を持っていると思った。
寒い間、母の腹中にぬくぬくと仕舞われてあり、雪がとけ、春の明るい陽光が降り始めると、私は母の腹中から飛び出したのである。
「幼な日のこと」より井上靖
(井上靖通り)
氷点
今日も「氷点」の舞台となった旭川の外国樹種見本林には凛とした空気が張り詰め、三浦綾子記念文学館はその森の中に静かにたたずんでおります。
「百年の時を刻んだこの植樹林が三浦綾子という作家の手で全国に伝えられた時、ひとつの伝説が始まりました。」
この見本林は林野庁北海道上川中部森林管理署が管理する国有林で、約15ヘクタールあり、ストローブマツ、ヨーロッパアカマツ、ヨーロッパトウヒ、ヨーロッパカラマツなど、約1万2千本の樹種が育てられています
三浦綾子
1922 大正11 当歳 4月 25日 旭川市において父・堀田鉄治、母・キサの次女(第5子)として生まれる。戦争中は、天皇絶対時代の熱心な小学校教師であり、戦後、その価値観が崩壊したことで絶望に落ち込み、教師を辞職してしまいます。そのすぐあと病魔に襲われ、13年間という長いあいだ、脊椎カリエスと闘う病床生活を送ります。1959 年昭和34年、37歳で 三浦光世氏と日本基督教団旭川六条教会で結婚。 雑貨店の奥さんとして1964年、( 昭和39) 42歳 の時、『氷点』入選 。平成11年、 77歳で多臓器不全のため、旭川リハビリテーション病院で逝去。
三浦綾子記念文学館
三浦綾子記念文学館
 (旭川市神楽7条8丁目)
氷  点                     
風は全くない。東の空に入道雲が、高く輝いて、つくりつけたように動かない。ストローブ松の林の影が、くっきりと地に濃く短かった。その影が生あるもののように、くろぐろと不気味に息づいて見える。
この裏には 「この文学碑は、旭川で生まれ、この地で生涯を通じて作家活動を続けてきた妻、綾子の業績を顕彰して建てられました。見本林の風景は綾子のデビュー作となった「氷点」に、活き活きと描かれています。この地を訪れた皆さんが人間の生き方を求め続けた三浦文学の世界に触れていただけると幸いです。」
三浦文学を支えているのは
「人はどのように生きたらいいのか」という問いかけです。それを庶民の視点にたち、人間への限りない関心と
すぐれた観察力をもっておしすすめています。」
知里 幸恵
北門中学校校庭
旭川市錦町15 北門中学校校庭
「知里幸恵が生まれた所」と案内板に書かれている。
知里 幸恵(ちり ゆきえ、1903年6月8日 - 1922年9月18日)は北海道登別市出身。祖母がユーカラクル(ユーカラを謡う人の意)であった。知里幸恵は、アイヌ語に堪能で、失われつつあるアイヌの文化を後世に伝えるべく『アイヌ神謡集』を書き上げたが、心臓病のため、19歳の若さで死去。弟に言語学者の知里真志保がいる。
知里幸恵文学碑
銀のしずく 降る降る まわりに
 金のしずく 降る降る まわりに

碑文は「アイヌ神謡集」の一節
知里幸恵文学碑
「その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人たちであったでしょう。」 
 
岩村通俊
岩村通俊
当時の上川は強風もなく、高燥平坦な肥沃な大地があり、幾数十年も移出できる樹木や試作した穀菜類の成育がすぐれているという報告に強い印象を受けた司法大輔、岩村通俊卿は、明治18年に永山武四郎(屯田兵本部長)とともに近文山に上って国見を行い、この地に「北京を置く議」を政府に提出した。
岩村通俊文学碑
世の中に涼しきものは上川の
雪の上に照る夏の夜の月

岩村通俊文学碑
旭川市 常盤公園内



永山武四郎碑
上川の清き流れに身をそそぎ
神楽の岡に御幸仰がん
まだ入植者も数えるほどだった明治22年、上川を視察した北海道長官永山武四郎が「北京を北海道に設置して人心を北に」と、上川離宮造営地設定の意見書を提出したが歴史の中に埋没してしまいました。予定地跡には、永山武四郎が離宮計画を決定した内閣の宣達文を自書しこれを記した「上川離宮宣達書碑」と、永山武四郎が天皇の行幸を仰いで詠んだ「永山将軍歌碑」がたっています。旭川市 上川神社(神楽岡公園内)
永山武四郎
北海道開拓記念碑
 北海道開拓記念碑「風雪の群像」 
制作 本郷新  風雪百年
耐えに耐え 頑固に立ち直り 不屈な力に支えられて
百年の冬と夏、春とそして秋がくり返され ついに
広い空の下に 大地はその全貌を見せた
今 花よりあざやかに 大地を彩る家々と耕地 そして
若く巨大で明るい国土を創造する貌々 道はすべて
この基石にはじまり ここに集まる
今こそ大望を抱け 母なる北の大地よ
更科源蔵作「基石」の一節より 
旭川市 常盤公園
更科源蔵
更科源蔵
904年(明治37年)、父、更科治朗、母ヨリ。弟子屈町字熊牛原野で生まれ、1985年(昭和60年)81歳、9月25日脳梗塞のため札幌厚生病院にて死去。東京の麻布獣医専門学校を喀血し中退。、コタンの小学校の代用教員や酪農・印刷業などする傍ら、東京で勉学中、詩人尾崎喜八に認められた詩作を続け、アイヌの古老からアイヌ文化を教わる。その後札幌で生活するようになり、詩を書きつづけ同人誌の発行や郷土史・アイヌ文化の研究など文筆活動をされた。麻布獣医専門学校の夏休みに帰省したおり、姉ミヨの墓によって文学の世界に誘われる。「墓の前を通ると、強い秋の斜面をうけて百日草の花が真赤に咲いていた。その燃えるような花のあでやかさにうたれた私は、これをなんとか文章に表現してみたいと思ったのが、私に詩というものを書かせた最初である。」「まるで私の知らない姉が誰にも言えない開拓地の悲しみを、私に書かせるために、あのとき私をハッと立ち止まらせたかのように思われる」
 
小熊 秀雄文学碑
ここに理想の煉瓦を積み  
ここに自由のせきを切り
ここに生命の畦をつくる   
つかれて寝汗掻くまでに
夢の中でも耕やさん

(旭川市 常磐公園 青少年科学館)
昭和42年5月28日建立 揮毫は壷井繁治

小熊 秀雄文学碑
1901(明治34)年,小樽市に生まれる。父三木清次郎,母小熊マツ。少年時代は稚内,秋田県,樺太豊原・泊居(とまりおろ)などを転々とし,泊居高等小学校を卒業。その後,漁師手伝い,養鶏場,パルプ工場職工等の仕事に従事する。
徴兵検査の時に戸籍を見て小熊マツ私生児となっていることを知り,以後,小熊姓を名乗る。1922(大正11)年,姉のハツを頼り来旭,旭川新聞の見習い記者になる
二度の上京を経て,1928(昭和3)年,最後の上京をし,
以後東京で活躍。
1940(昭和15)年,肺結核のため39歳で死去。

今野大力(こんのだいりき)文学碑

詩人が時代の先駆をした  詩人が郷土を真実に生かしたそんな言葉が  私の耳に流れては来ないかしら
そんな言葉が  地球のどこかで語られる時私のからだは墓場の火玉となって消えるだろう     「やるせなさ」より

今野大力(こんのだいりき)文学碑
昭和60年6月22日建立
1904(明治37)年、2月5日、宮城県伊具郡金山町(現・丸森町)に生まれる。
1907(明治40)年、家族とともに旭川に移住。その後、父の事業のために名寄、深川などを経て再度旭川に住む。
旭川では旭川新聞社の給仕の後、郵便局の小包係として働く。この頃より詩作を始め、叙情的・ロマン派的作風になじむ。文学を志す若者と交際し、地元の新聞に寄稿をする一方、中央の雑誌にも投稿し、入選する。
1932(昭和7)年の左翼文芸家に対する一斉弾圧により、壷井繁治、宮本百合子をはじめ400人以上の文化人とともに検挙される。その後健康を害し、 1935(昭和10)年、結核のため31歳で死去
宮沢賢治文学碑 旭川
宮沢賢治文学碑 「旭川」 
道立旭川東高等学校

大正12年(1923年)8月2日に旭川につく
賢治が馬車で尋ねた農事試験所。その日のうちに樺太に出発。
平成15年8月2日建立
植民地風のこんな子馬車に
朝早くひとり乗ることの楽しさ
「農事試験場まで行って下さい」
「六条の十三丁目だ」
馬の鈴は鳴り駆者は口を鳴らす
黒布はゆれるしまるで十月の風だ
一列馬をひく騎馬従卒のむれ
この偶然の馬はハックニー
宮沢賢治文学碑 旭川

たてがみは火のようにゆれる
馬車の震動のこことよさ
この黒布はすべり過ぎた
もっと引かないといけない
こんな小さな敏捷の馬を
朝早くから私は町をかけさす
それは必ず無常菩提にいたる
石川啄木 旭川
1908年(明治41年)1月19日、
石川啄木が小樽から釧路へ向かう途中、旭川で停泊した事実があり、
当時旭川駅前にあった「宮越屋旅館」に泊まったそうです。 
わずか15時間15分のことかもしれませんが、
旭川と歌人石川啄木の接点が確かにあったわけです。

JR旭川駅新駅舎内東側 旭川観光物産情報センター内 正面入口
平成24年(2012年)4月除幕
厳寒の旭川駅を出る、汽車の様子をうたう。
 
帽子を被り、首巻き(マフラー)を巻き、トンビを着る。
そんなイメージで作成された。
http://1st.geocities.jp/asahikawa2011takubokukai/3kikaku1.html
上記より引用させて頂きました。

(平成24年6月撮影)
石川啄木 旭川
石川啄木文学碑

水蒸気 列車の窓に花のごと
  凍てしを染むる あかつきの色
「雪の降る街を」は直接、旭川を歌ったわけではない。
1973年、北海道高校演劇発表大会に作詞者の内村さんが
審査員と招かれた。
そのときにこの歌を歌ったので、内村さんは「旭川の歌でいい」
と詞を紙に書き残した。
旭川の音楽祭で歌いつがれています。
作詞  内村直也
作曲  中田喜直
歌手  高  英男
(大雪クリスタルホール前)

雪の降る街を  雪の降る街を
思い出だけが通り過ぎてゆく
雪の降る街を  遠い国から落ちてくる
この思い出を この思い出を
いつの碑かつつまん
あたたかき幸の ほほえみ

(2013年2月北海道新聞より)
雪の降る街を
神居古潭
たきつ波ましろう白う岩にちる  
             神居古潭のくもれる真昼

九條武子文学碑
 (昭和31年5月16日建立)
京都西本願法主大谷光尊と側室の間に生まれた。
1909年に九條良致と結婚。西本願寺22代夫人となる。
二人は結婚後すぐに日本と英国とに離れて暮らし、
約10年間の別居となる。外遊した時に、諸国で出会った女性の教養の高さに驚き、後の京都大学の設立に尽力。
関東大震災を機に医療や福祉活動を続けた。社会事業に貢献する。
大正12年・昭和2年に仏教婦人部総裁として来道。
敗血病で42歳で死去。
(神居古潭、橋を渡って丘の左側)
九条武子文学碑
平岩弓枝文学碑 人生は旅路
夫婦は鉄路


石狩川が夕張山脈を横断して 上川盆地から石狩平野へと流れる 山脈が川を横切って行く峡谷のあたりを アイヌはむかし 神と悪魔の争いがあったと伝え 神居古潭の名で呼んだ 函館本線神居古潭駅 この駅に赴任して来て室伏雄一郎は はじめて駅長のあの赤い金箔の入った帽子をかむった 雄一郎有里の夫婦にとって神居古潭は第二の人生への出発であった。


平岩弓枝文学碑


旭川市神居古潭 ドライブイン(今はないです)
昭和44年7月19日の除幕式には平岩弓枝も出席
宮沢賢治−大正12年・夏賢治27歳の折、樺太まで行く途中に旭川に寄る。
農事試験場(地方農事試験場)見学

昨日の新聞に宮沢賢治の小学校3年から6年までの
成績表が見つかったとのっていました。
オール「甲」
体格は6年生で133センチで29キロ。(2013年5月22日、北海道新聞)
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