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北海道の文学碑

国道36号線・太平洋沿線  室蘭から白老・登別
白老
仙台藩跡地
仙台藩跡地
開国時における北の守りを固めるため、1856年幕府は
仙台藩ほか奥羽諸藩に蝦夷地の警備を命じました。
仙台藩の守備範囲は白老から国後択捉島まで蝦夷地の
約1/3に上ります。
各地に出張陣屋を置き白老の元陣屋は警備の
中心となりました。

仙台藩
安政2年幕府、津軽・南部・秋田・仙台・荘内・会津・
松前の各藩に対し、蝦夷地警衛を命ず。
安政3年備頭氏家秀之進ら蝦夷地行じゅ隊 220名仙台出立した。
安政6年白老・十勝・厚岸・根室・国後・択捉、
仙台藩の所領となる。
登別
知里幸恵 知里幸恵(向かって右)・金成マツの墓

知里幸恵は知里 真志保の姉で金田一京助に優れた資質を認められアイヌ自身による神謡の本格的な記憶を始めて行った。
 金成マツは金田一京助に協力して約160冊のユ−カラノ−トを残した。

太平洋の見える場所にたっています。
登別市富浦墓地
知里真志保文学碑
銀のしずく ふれふれ まわりに
知里真志保(ちりましほ)文学碑
(登別市 登別小学校校庭)
明治42年2月 登別生まれ  昭和36年没
登別小学校(登別市本町3丁目)
「この地は郷土の生んだ偉大な言語学者知里真志保が登別小学校に通い天真爛漫な少年時代を過ごした思いで多い所です。」
彼の天才的頭脳のきらめきは在学中に非凡を現し、
コンサイス英和辞典を
一日・一枚ずつ記憶しては捨て・遂に一冊の単語全部を
憶えたという逸話もある。東大に学び・文学博士。
昭和36年6月9日・病により52歳で死去。
高浜虚子文学碑
よくぞ来し今青嵐に包まれて

高浜虚子文学碑

登別市 カルルス 国民温泉裏
昭和25年8月 建立 昭和36年の集中豪雨のため流失
同46年10月再新設

明治31年(1898年) 虚子は「ホトトギス」の経営権を買い取り継承。
和歌、散文などを加えた俳句文芸誌として再出発した.
明治35年(1902年)9月の正岡子規の没後より、河東碧梧桐との対立が始まった。
虚子は碧梧桐の「温泉百句」を批判し、その対立は鮮明となった、
明治43年(1910年)一家をあげて神奈川県鎌倉市に移住した
高浜虚子文学碑
囀や(さえずり) 絶えず二三羽 こぼれとび
高浜虚子文学碑( (1874年〜1959年)
登別市登別温泉笹が岱
昭和18年11 高浜 虚子(たかはま きょし、1874年(明治7年)2月22日 - 1959年(昭和34年)4月8日)日本の俳人、小説家。本名・高濱清(たかはま きよし)。
明治21年(1888年) 伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学。1歳年上の河東碧梧桐と同級になり、彼を介して正岡子規に兄事し俳句を教わる。明治24年(1891年)子規より本名の清から「虚子」の号を受けた


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