私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります北海道の文学碑のトップに戻ります

北海道の文学碑
 ルート275 札沼沿線 札幌から当別・沼田まで 

国道275線は北海道開拓の道。 札幌を出て「母なる川」といわれる石狩川を渡ると当別町。
国道275 この地図ではわかりにくいとは思いますが
大雪山系から流れ出した石狩川は長年に渡って氾濫を繰り返し現在に至っています。。その歴史ともいうべきものは三日月湖となって今も形を留めています。北海道民にとっては石狩川は特別な感情をいます。多くの被害をもたらしたりもしました。 その石狩川を越えて札幌から北上します。新十津川町に向かって。同じ札幌市でありながら北区、この石狩大橋の近くのあいの里周辺では天気が全然違いと言われています。先日の新聞にも気象協会の方がいわれていました。「たいした降雪はないでしょう」と報道したところ北区の降雪はすごかったらしいのです。「 誤って報道したのだからおまえが雪を除雪に来い」そんな経験を積んできたと書かれていました。そのくらい天気は変わります。
本庄睦夫の「石狩川」の記念碑
昭和39年7月23日建立
当別町太美 石狩川河川
高見順揮毫
「石狩川」はこの開拓の史実をもとにした長編。
大自然に翻弄される人間の死闘。 伊達邦直を始めてとして40何戸、数百人はおのずから定まった場所に落ちついた。 それにしても広大な土地だ。彼らはとうべつの地を「自分達の死に場所」と定めた この文学碑は作者の25回忌に序幕された。「北海道文学碑」の 幕開けである

「いの一番にこの川をみつけたのは、肥え太った鮭の群れであったろうか」小説の一説より。
石狩川の記念碑
月形  
明治19年(1886)に建設された旧樺戸集冶監は大正8年(1919)に廃監になった.。ここの場所はJR石狩月形駅と国道275号の中間に、赤い屋根の木造の建物が見える。集冶監が開帳したのは明治14年のことで、同時に月形村が開村した。、村名は初代典獄が月形潔であったことからきている。吉村昭の「赤い人」には脱走した重罪囚徒と看守との壮絶なドラマが生々しく書かれていて息を呑む。 「明治維新後43000人に及ぶ者が賊徒としてとらえられたが、東京と宮城集冶監では収容できなかった。無人に等しい北海道に罪人を送り込み、原野を開墾させた。明治14年東京から朱色の服を着た人の列が小樽に上陸した.。ここが北海道と聞いた囚人は悲鳴をあげた。江別から石狩川を丸木舟にのせられて3日後に月形につく。岸にあげられた彼等は恐怖で動こうとしなかったといわれる。ここから南にまっすぐ行くと旧石狩川に突き当たるがそこが監獄波止場の後である。」 旧樺戸集冶監
旧樺戸集冶監(月形町)
浦臼
坂本龍馬家の墓
坂本龍馬家の墓
1896年、北海道の開拓として知られる坂本龍馬の甥坂本直寛が浦臼に立ち寄り、北見地方の開拓のために、聖園農場に協力を求めたことから
浦臼との関係が始まった..墓の主は龍馬の養嗣子で海援隊員でもあった坂本直の妻、留とその長男直衛である

司馬遼太郎によれば「坂本龍馬にすれば新政府ができれば浪人達は無用の存在になる。
みんな北海道にうつろう!」
が龍馬の考えであった。
北村
明治43年、札幌から21歳のお嫁さんが旅たった。石川啄木があこがれた橘智慧は函館の小学校で啄木と一緒だった。啄木は友人、瀬川深にあててこのように書いてあった。
「過去1年間僕は向こうからきた手紙に返事を書かないでいた。そうして今度始めて苗字の変った賀状をもらった。
異様な気持ちであった。お嫁にはきましたけれど心はもとのまんまの智恵子ですから・・と書いてあった。」

彼は智慧を「真直ぐたてる鹿子百合」にたとえた。
智慧は兄の学友でもあった北村勤のもとに嫁いだ。
智慧は啄木が東京で肺を 患っていることを聞いてバタ−を送った。その後、智慧は産褥熱の為に6人の子供を残して33歳で亡くなりました
北村農場
石狩の空知郡の
牧場のお嫁さんより送り来し
バタかな。

石川啄木文学碑  北村農場
新十津川
新十津川の母村は奈良県の十津川です。
奈良県十津川郷は,明治22年の大洪水で壊滅し,翌春北海道へ移住し新十津川村を誕生させた。
新たな生活地を求めて600戸・2489人が北海道への移住を決断。「必ずや第2の郷土を建設する」と固い意図を胸に秘め旅立つことになった。
このころ約1200キロ離れた北海道では、屯田兵制度に続いて明治19年には植民計画が採用され、全道的な開発が始まろうとしていたのである。特に「樺太経営」と「ロシア南下への防備対策」から、その中継地としての石狩平野開拓は緊急課題であった。こうした時代背景の中、その植民区画の第1号としトック原野に十津川村からの集団移住者たちが入植したのである。明治23年6月のことであった。
森田フキ像
森田フキ像
川村たかし作の「新十津川物語」
 

私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります北海道の文学碑のトップに戻ります