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北海道の文学碑

ル−ト37号線  伊達・虻田・豊浦・洞爺湖

伊達市ー気候が温暖であるところから北海道の湘南と呼ばれている
独歩と別れた佐々城信子は母親や自分の子供・ウラは伊達に住んだことがあるといわれている
伊達邦成文学碑
春に見し都の花にまさりけり
蝦夷がちしまの雪のあけぼの
伊達を開いた伊達邦成は亘理領(宮城県仙台市の南)の殿様でしたが、新しい世の中になって家来を生活させることができなくなり、
家老の田村顕允(あきまさ)の協力で北海道で新しいくらしをしようと考えました。
明治3年3月、邦成は大工・人夫などあわせて250人の人たちと室蘭につきました。
さっそくモンベツへいって、荒れた土地に入り、木を切り倒し、ささやぶを切り開いて、そまつな小屋を建てて生活を始めました。
その後、移住は明治14年まで9回にわたり行われ、のべ2700人余りが入植しました。
旧武士集団移動の中でもっとも開拓に成功した土地
伊達邦成文学碑
伊達市 開拓記念館前
宮尾登美子文学館
宮尾登美子文学記念館
〒052-0022
北海道伊達市梅本町57番地1(開拓記念館隣り)「宮尾本平家物語」の連載にあたって、伊達市に山荘を構えました。

宮尾 登美子(みやお とみこ、女性、1926年4月13日-) は日本の小説家。高知県生まれ。高坂高等女学校卒業。
宮尾登美子文学館

再婚した夫と上京し、1962年『連』で婦人公論女流新人賞を受賞。1973年の『櫂』が太宰治賞を受賞し、出世作となる。
『東福門院和子の涙』など、歴史の中で弄ばれるはかない女性を描いた歴史小説が有名。
宮尾文学の原点にあるのは、その生いたちです。土佐・高知で芸枝娼妓紹介業を営む生家と複雑な家庭事情への劣等感
がある。
バチラー 八重子
バチラー 八重子文学碑

春ごとに村に訪ひ来し閑古鳥
家の近くの山に鳴きしか

海もよし山もうつくし人もよし
ほんに住みよき有珠コタンかな

有珠山にのぼりながむる噴火湾
岸辺にたてる駒が嶽かな
http://www.hokkaido-jin.jp/zukan/picturebook/
itemview.php?iid=2000700073
伊達市 向有珠町 バチラー夫妻記念堂前)
バチラー 八重子
バチラー 八重子は1884(明治17)年 〜 1962(昭和37)年
明治17年伊達のアイヌの富豪の次女として産まれる。幼名は向井フチ。7歳の時、ジョン・バチェラーから洗礼を受け、その後は信仰の道を歩む。明治39年にはバチェラーの養女となり、東京のコーラン聖書専門学校で伝道師の資格を得て、道内から樺太まで布教活動を行った。同じ信仰の道を歩む金成マツを尊敬していたが、同時に違星北斗や知里真志保ら、若い同族からは姉のように慕われていた。
昭和6年、歌集「若き同族(ウタリ)に」を刊行。アイヌ出身であることによる民族感情、キリスト教の精神と日本語の融合が幅広く注目を集めた。その後は、有珠教会に永く住み生涯を送った。
菅江真澄
菅江真澄(すがえ)文学碑

蝦夷みてもくもりも波の月きよく
吹く口びはの声の涼しさ
(洞爺湖町虻田 歴史公園) 

 
菅江真澄(すがえ ますみ、宝暦4年(1754年) - 文政12年7月19日(1829年8月18日))は、江戸時代後期の旅行家、博物学者。
和学、和歌を学ぶ。各地をしばしば巡って紀行を執筆。信州、東北から蝦夷地にいたる長い旅を重ねる。
旅先の各地で、土地の民族習慣、風土、宗教から自作の詩歌まで数多くの記録を残す。彼は、本草学を下にして、多少の漢方の心得もあったという。著述は約200冊ほどを数え、「菅江真澄遊覧記」と総称されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8F%85%E6%B
1%9F%E7%9C%9F%E6%BE%84
豊浦文学碑公園 伊藤整
五月の初め頃私は噴火湾の沿岸をとおって函館の
方から札幌への汽車に乗った。
初めて乗るこの長輪線と言う海沿ひの汽車の風景が、
風景そのものの楽しさで眼に映った(千歳線風景より)


豊浦町文学碑公園
虻田郡豊浦町字礼文華703
昭和62年7月18日建立
伊藤整文学碑
小樽で育った作者が始めて長輪線に乗ったのは昭和21年で(41歳)北海道大学で教鞭をとっていたときである。
礼文華はアイヌ語でレプウンケップ「沖にある、水などをかい出すもの」という意味。
斉藤茂吉文学碑
有珠の峰礼文の磯の大岩の     
ならぶ中にも我を見送る  
与謝野寛

数しらね虹となりても掛かるなり  
羊蹄山の六月の雪  
与謝野晶子

白浪のとどろく磯にひとりして
メノコ居たるを見おろして過ぐ  
斉藤 茂吉
実際に降りて見た訳ではなく、電車の中で読んだ歌らしい。
与謝野夫婦が北海道に旅したのは昭和6年である。
寛58歳・晶子53歳。二人して350首を残している。
斉藤茂吉が弟とともに海道に遊んだのは50歳の昭和7年のことである。
斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年5月14日(戸籍では7月27日) - 1953年2月25日)は、山形県南村山郡金瓶村(現在の上山市金瓶)出身の歌人、精神科医である。伊藤左千夫門下。アララギ派の中心人物。長男は斎藤茂太。次男は北杜夫。
農民・守谷伝右衛門熊次郎の三男。父方の祖父・金沢治右衛門は和歌を嗜んだ。守谷家には、茂吉が小学校卒業後に進学するだけの経済面の余裕が無かった。親戚の、浅草の医師・斎藤紀一の家に養子に入る。
中学時代から和歌の創作を開始する。高校時代に、正岡子規の歌集を読んで偉く感動、歌人を志す。そして、左千夫に弟子入りする。生涯に全17冊の歌集を発表し、全17907首の歌を詠んだ。
洞爺湖温泉
与謝野晶子文学碑
つけば向洞爺の桟橋に
並木を出でて待てるさとびと   寛

山畑にしら雲ほどのかげらふの
立ちて洞爺の梅さくら咲く    晶子
与謝野寛・晶子文学碑
洞爺湖温泉・向洞爺・「道の駅」桟橋近く
藤田晋一文学碑
洞爺湖の中島の秋昏れ残り
円空の刻む舵の音なし

藤田晋一文学碑
 洞爺湖生まれ  昭和54年没

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