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北海道の文学碑

石狩平野 国道12号線 札幌から岩見沢・長沼・三笠・美唄・上砂川・歌志内・滝川・深川まで 

原子修文学碑 昭和31年、「第一詩集」を刊行以来一貫して優れた現代詩の創作に専念してきた。
評論集「銀河へのいざない-宮澤賢治論」の他、童話集「月と太陽と子どもたち」を刊行し、詩劇26作品61公演を、道内、道外、国連本部、カナダ、アメリカ、ヨーロッパ、ロシアで行っている
札幌市立彫刻館々長


石狩川
時は流れ水は流れ
千の苦悩 万の悔恨 億のコトバは流れ去っても
石狩の川はあり
石狩の野はあり
北に生きる者のギラリと輝く意志がある。

原子修文学碑
(国道12号線沿

337号線 草創期の旭川を描いた「馬追原野」空知管内長沼町馬追丘陵文学台
辻村もと子文学碑

辻村もと子
開拓のシンボル、プラウ=牛馬・トラクターなどに引かせて用いる鋤(すき)。昭和47年8月5日建立
碑文の内容は
「強欲な冬の力に抗するように、時折、ぱあっと明るい名残の陽ざしが顔をだすのだが、その光は明るい割に弱々しく、すぐ灰色の雲に押し付けられて、ガラス屑のような硬いこまかな雪片が風と一緒に横なぐりに野面をおおってしまう。馬追の開墾地の人々は、まだ畑に掘り残してあった馬鈴薯の残りを総がかりで小屋に運んでいた」(撰文・木原直彦)
昭和19年に第一回樋口一葉賞をうけた辻本もと子。
父・辻本直四郎は小田原出身だったが明治24年、彼が22歳のときに開拓に夢をもって来道。
馬追原野の亀谷農場で支配人として働く。
やがて岩見沢市志文の開拓の祖となり、
もと子はそこで明治39年2月に生まれている。
昭和21年(1946年)5月24日、
病のために40歳と3ヶ月で岩見沢にで永眠。
「馬追原野」は父をモデルとして書かれた。

「馬追原野」は明治初期の開拓のありようを、長沼という土地を舞台に一つの典型として書かれている。
「馬追原野」のあとがきに「私は生まれた土を愛する。
この特種な新しい歴史を持った土地が、よりよい発展の道をたどるようにとは、いつもたえない私の念願である」
水戸藩顕彰の碑
水戸藩顕彰の碑

車が一車線しか通れない山を登っていくと目に入ったのが
この水戸藩顕彰の碑。
いったいこれは何だ?って思いながら近くまで行って目を下に向けると大きな文学碑が頭を見せてくれました。
もう少し案内板を出して欲しいと思いました。
長沼の役場の方が「登れるかどうか」確認してくれました

松浦武四郎文学碑
出るよりやがてかたぶく月影の
   移り行く世のならひをぞ思ふ」
松浦武四郎文学碑
長沼町 道の駅「マオイの丘公園」
松浦武四郎は、蝦夷地の探検をはじめ、日本の深山の探査や和歌、漢詩、絵画など多方面にわたって、多芸多才ぶりを発揮。
文政元年(1818)、伊勢国須川村(松阪市(旧三雲町小野江))に地士の4男として生まれる。28才の年初めて蝦夷地へ渡り、38才のとき蝦夷地御用御雇い入れの命を受け、幕府の役人として更に蝦夷地の調査を行い「東西蝦夷山川地理取調図」28冊などを刊行する。
維新後は蝦夷地開拓御用掛、更に開拓判官となり北海道名、国名、郡名の選定にあたり、北海道命名者として従五位開拓判官に任命され不朽の名誉を残したところから「北海道の名付け親」と称されている。
岩見沢 空知の農業物集散地として発展した田園都市
中村武羅夫(中村むらお)
誰だ 花園を 荒らす者は

中村武羅夫文学碑
(岩見沢市東山公園内)
昭和44年5月13日建立
直筆
中村武羅夫(中村むらお)
1886(明治19)〜 1949(昭和24)作家中村武羅夫(中村むらお)は、鳥取の移住者の子として明治19年に岩見沢に生まれる。
「僕の両親が明治維新、没落士族の一団として北海道開拓のために移住したのは明治18年のことである。明治19年生まれのの僕は両親が北海道に移住した翌年に生まれたのだから、これでも僕は正真正銘の北海道っ児なのである」と語っている。両親は大変に苦労して3万坪のりんご園を開拓するがすべてりんごの木が枯れてしまって手放すことになる。22歳の時に上京。新潮社に入社。有名であった「花園を荒す者は誰ぞ」という反駁の論文で、熱烈に文学の純芸術性という観念を保守した。文壇の大久保彦左衛門と呼ばれ、「文芸春秋」の菊池寛と勢力を2分する。大衆小説界の大御所でもあった。岡田三郎や伊藤聖ら郷里の後輩の面倒を見る。藤沢市にて没する。
加藤愛夫文学碑 加藤愛夫文学碑

交響詩 岩見沢
 こころに緑の森をえがき 清き湖をたたえ
 明日を考え夢を語ろう
 すべての人が 住みよい理想の聖地を築くために
 黎明の光 東の山からのぼり 
 わたしたちのまちを照らし 夕陽は無限にうるわしく
 石狩の大平原を くれないにそめる
 ああ 青春のまち 北国の象徴のまち
               第3章「北国の象徴」より
(岩見沢市鳩が丘公園)
三笠 産炭地・北海道の歴史はこの地の幌内炭鉱から始まった
空知集治監にあった裏山が奈良の三笠山に似ているという、囚人が望郷の念をこめて三笠山と呼んでいました。
明治39年(1906年)、市来知・幌内・幾春別の三村合併のときにこの山の名を取って三笠山村としました。
月形町の樺戸集治監についで明治15年(1882年)に市来地(三笠)に空知集治監を設置したのは、
囚人達を使役して石炭を掘らせるためであった。
「空知の炭山(すみやま)この世の地獄ではないのか
若山牧水文学碑
老いゆきてかへらぬものを父母の
  老いゆくすがた見守れよ子等
若山牧水文学碑

若山牧水は大正15年9月北海道行脚の旅に出て
11月8日幾春別に一泊し、翌9日幌内を訪れて歌会を
開催した。(三笠市幌内 金谷町 ミカサモダンアートミュージアム前)前は学校だったのだが廃校に伴いミカサモダンアートミュージアムにして使っているらしい

宮崎県東臼杵郡東郷村(現・日向市)の医師・若山立蔵の長男として生まれる。明治32年(1899年)宮崎県立延岡中学(現・宮崎県立延岡高等学校)に入学。短歌と俳句を始める。 18歳のとき、号を牧水とする。
明治37年(1904年)早稲田大学文学科に入学。同級生の北原射水(後の白秋)、中林蘇水と親交を厚くし「早稲田の三水」と呼ばれる。 明治45年(1912年)友人であった石川啄木の臨終に立ち合う。同年、喜志子と結婚。大正2年(1913年)長男・旅人(たびと)誕生。その後、2女1男をもうける。
旅を愛し、また大の酒好きで一日一升程度の酒を呑んでいた。
一家をあげて沼津に移住。昭和2年(1927年)妻と共に朝鮮揮毫旅行に立つが体調を崩し帰国。翌年夏頃より病臥に伏し自宅で死去。享年43才

山田顕義碑
三笠市達布山は三角点の水準がある空知の測量
の原点になっています
在眼天塩石狩洲  
長川一帯入空流  
可無禦侮張権策  
駐馬太布山上秋 

山田 顕義(やまだ あきよし、弘化元年10月9日(1844年11月18日) - 明治25年(1892年)11月11日)は、幕末の志士・明治時代の政治家・陸軍軍人。日本大学の学祖。通称は市之允、諱は顕孝、のち顕義と改めた。
山田 顕義
前田 夕暮文学碑

眼がさめると小雀がないていて
炭鉱社宅のあけっぱなしの部屋

前田 夕暮(まえだ ゆうぐれ、本名:前田 洋造(洋三とも)、1883年7月27日 - 1951年4月20日)は、
明治から昭和期にかけての歌人。


この碑の詩は1930(昭和5)年、幾春別を訪れたときに詠んだ句


三笠市弥生花園町

前田 夕暮

小田観螢文学碑
人造湖一碧ひろく世を恵み
アンモナイトの秘せる億年

小田観蛍文学碑
小田観蛍文学碑

三笠市桂沢湖展望台

桂沢湖展望台−売店などのない所の展望台です。
桂沢湖は、桂沢ダムの完成によりできた大人造湖です。
湖の周囲は62km

小田観螢(おだかんけい)
1886(明治19)年11月7日〜1973(昭和48)年1月1日
本名哲弥。岩手県宇部村(現久慈市)に生まれ、1900(明治33)年両親とともに小樽に移住。奥沢小学校の代用教員となり、1951(昭和26)年札幌短期大学教授にいたる50年余の教員生活を送る。1902(明治35)年頃より和歌、美文等を創作し、「文章世界」に投稿を始める。1909(明治42)年には富良野の小学校に勤務。1915(大正4)年太田水穂が短歌結社誌「潮音」を創刊するや率先して加盟する。70年に及ぶ長い歌人生活に対して、日本歌人クラブ名誉会員、第1回北海道文化賞、北海道新聞文化賞受賞、第1回小樽市功労者(教育文化)表彰。主著に歌集「隠り沼」(こもりぬ)「忍冬」「蒼鷹」「暁白」「天象」「晩暉」「小田観螢全歌集」など
若山牧水文学碑
幾山河
超え去りいかば寂しさのでない国ぞ
今日も旅ゆく

若山牧水文学碑
場所は違うのに同じ句がたっています。
違う句もあるはずなのに・・
この地域健康センタ−のあるお風呂屋さんに聞いてみました。従業員が出てきて分からないという。そこに社長さんが帰ってきました。同じ句ではないですか?って聞いても違うという変な返事。
同じように見えるのは私だけ?変なの・・・
(もう一つの方は削除しました)
三笠市地域健康増進センタ−前
幾春別の歌
「幾春別の詩」
阿木耀子作詞
宇崎竜童作曲
宇崎三笠市立博物館前


横浜出身
宇崎竜童と結婚後、彼が率いるバンド『ダウン・タウン・ブギウギ・バンド』のために書いた曲、「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」で作詞家としてデビュー。その後、山口百恵の曲を宇崎竜童と共に、作詞・作曲し、山口百恵の黄金時代を支える。「イミテーション・ゴールド」「魅せられて」他数々のヒット曲がある。
美唄 農業と石炭の産業で発展した
林芙美子文学碑
林芙美子の文学碑
昭和17年に文芸運動の一環として北海道講演に回ったときに美唄にも立ち寄り、即興の詩を小雑誌の奥付けに書き留めたのを拡大している。
美唄の町は美しきうたとかくなり
此町に住むひとには幸福ぞあるらし
豊かなる野畑はひらけ 空には天の詩沁みわたる
北の国びばいの町にきて まつりのタイコの音をきくなり
中略
タイコの音色は秋のとり入れ
炭鉱の山のにぎわいを人の心に沁みわたらせている

昭和51年9月25日建立
美唄市西二条南一丁目 中央公園
山口県下関市出身。林芙美子
明治36(1903)年〜昭和26(1951)年。死因は心臓麻痺
本名林フミコ。尾道市で少女時代を過ごす。行商人を両親にして、貧しく定まった家を持たずに成長した。事務員や女性記者、カフェなど、転々とする。日記や創作ノートを風呂敷一つに抱えて、夜汽車にのり、心のままに下車したりした。
『放浪記』でベストセラー作家となり、『稲妻』『浮雲』『めし』などの傑作を次々と発表する。
長谷川かな女文学碑
長谷川 零余子(はせがわ れいよし)
長谷川 かな女(はせがわ かなじょ) 

雪を見れば蝦夷ものたらず秋の蝶       零余子
花蕗をわけて石狩川となり           なか女

長谷川かな女は明治二十年、かな女は日本橋・打刃物問屋の番頭を父として育ちました。かな女は父亡き後、英語の家庭教師と結婚しました。かな女は夫長谷川零余子の導きで俳句を始め、長谷川時雨と知り合い、「輝ク会」に入会し。夫亡きあと句誌「水明」を創刊、主宰。かな女は、時雨の名随筆『旧聞日本橋』を読み、それに刺激されて自身の半生を振り返って戦後、随筆『小雪(しょうせつ)』、『ゆきき』を書く。昭和四十四年九月、残暑の厳しさに加え、老衰に肺炎を併発し、享年八十二歳でした(美唄市役所前)
石川啄木文学碑
美唄駅裏
石川啄木文学碑
石狩の美国といへる停車場の
     柵に乾してありし赤き布片かな
説明文によると
石川啄木は明治41年1月20日・釧路に行く途中美唄停留所を通り過ぎた。
啄木は明治41年1月釧路に赴く途中美唄停車場を通り過ぎた。この歌は「一握の砂」の一首である。美国は美唄の誤りと推測される。」とある

石川啄木文学碑
上砂川炭鉱館 かみすながわ炭鉱館

若山牧水・喜志子夫妻が広く道内で色紙の揮毫をして回った。


「秋すでに蕾をもてる辛夷の木  
雪とくるころ咲くさまいかに
霜はいま雫となりてしたたりつ朝日さす紅葉うつくしきかな」


説明文には「大正15年10月23日夜の路の中を上砂川の紅葉橋を渡り、炭山に入って初めて身にかかる雪を見ながら雪中所見2首を詠む」
滝川  中空知の交通の要
山本有三文学碑 たったひとりしかいない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、うまれてきた かいがないじゃないか。(路傍の石より)
山本有三文学碑 
昭和57年4月15日建立
滝川市新町文化センター前庭
山本有三は明治22年に栃木市の呉服商の長男として生まれ、いくつもの作品を残し、昭和40年には文化勲章を受章されました。菊池寛、芥川龍之介らと文芸家協会を結成し、内務省の検閲を批判した昭和49年に87歳で没し、その墓は栃木市の近龍寺にあります。15歳まで栃木県栃木市で過ごしました。日光例幣使街道沿いにあり、巴波川は江戸から物資を栃木まで運び陸揚げされた所で、当時は相当の賑わいを見せていたようであり、今でも蔵造りの町並みが残されている。路傍の石」をはじめとして、「女の一生」、「真実一路」、「心に太陽を持て」などが、また戯曲「米百俵」などが代表作となっています。実際には北海道とは係わりがなく、たんに友好親善都市だったので栃木市太平山のものと同じものを建てた。
樋口賢治文学碑 春待てるとほきおもひにひとり立つ  
氷の下に満ち来るうしほ

樋口賢治文学碑

滝川市文化センタ−
碑文には滝川市と栃木県との友好親善年を記念して建立。
仁木他喜雄顕彰歌碑
仁木他喜雄(にき・たきお)
この歌は、昭和16年1月、NHKの「国民歌謡」として登場した。明治34(1901)年11月14日、滝川生まれ。「リンゴの唄」「銀座の雀」等を作曲。今に残る数多くの名曲を数多く手がけた。
昭和33(1958)年5月13日没。享年56歳。
仁木他喜雄顕彰歌碑
仁木他喜雄顕彰歌碑 (滝川市東滝川駅前)
作詞 サトウハチロウ 森繁久弥 揮毫
めんこい仔馬 
 
濡れた仔馬のたて髪を
撫でりゃ両手に朝の露
呼べば答えてめんこいぞオーラ
駆けて行こかよ丘の道
ハイドハイドウ丘の道 
   

ボタンを押すと「めんこい仔馬」の歌声が流れる
国木田独歩文学碑
国木田独歩文学碑(滝川公園)
空知川の岸辺
側面 余は今も尚ほ空知川の沿岸を思うと、
あの冷厳なる自然が、余を引きつけるように感ずるのである。何故だろう
石川啄木文学碑
石川啄木文学碑
空知川雪に埋れて鳥も見えず  
岸辺の林に人ひとりゐき

(滝川公園)

空知川の岸辺国木田独歩文学碑
国木田独歩文学碑
側面 余は今も尚ほ空知川の沿岸を思うと、あの冷厳なる自然が、余を引きつけるように感ずるのである。何故だろう (滝川公園)
国木田独歩文学碑
空知川の岸辺
詩人の国木田独歩は東京専門学校(現、早稲田大学)在学中に、
受洗しキリスト教徒となります。雑誌の編集や、教師を経て、
明治27年24歳の国民新聞記者として従軍し、
没後「愛弟通信」として刊行された
通信記事を送りつづけて好評を得ました。
佐々城信子との愛の巣を「北海道移住のことにつき、
宜しきに導きたまえ」と単身で28年にやってくる。札幌入りした独歩は札幌農学校教授の新渡戸稲造を訪ね、土地選定の相談をする。その後、佐々城信子と恋愛結婚しますが、半年で離婚する。晩年は「窮死」「竹の木戸」などの作品で自然主義作家として評価されましたが、明治41年(1908)肺結核のため、36歳で亡くなりました
国木田独歩文学碑
歌志内 炭鉱で繁栄。
国木田独歩文学碑
国木田独歩文学碑
昭和32年9月21日建立
歌志内市 歌志内公園
明治28年9月に歌志内を訪れた。
「空知川の岸辺」
山林に自由存す
われこの句を吟じ
血のわくを覚ゆ
嗚呼山林に自由存す
いかなればわれ  
山林をみすてし
明治4年7月15日(戸籍により)、本名は哲夫。幼、少年期を、山口県・岩国で過ごした。中学二年で中退の後、上京し、東京専門学校(現・早大)に入学、英語を学ぶ。在学中に、植村正久から洗礼を受け、キリスト教徒となる。 父親の退職から家計を支えるために大分県・佐伯市の鶴谷学館・教頭として赴任するなど各地を転々としたあと再び上京する。日清戦争勃発とともに国民新聞にはいり、従軍記者として「愛弟通信」を連載、注目される。明治28年、退職し、このころ、佐々城信子と知りあい、周囲の反対を押しきって結婚するが、すぐに離婚。明治31年、榎本治と結婚。明治34年文集「武蔵野」で認められる。明治41年、肺結核のため37歳で逝去。墓地は青山墓地内にある
明治41年6月、茅ヶ崎南湖院には身を横たえた独歩がいた。「死とは自覚の滅する事ならずや。(中略)死に近づくに連れて人は生前の自覚を次第に薄らがす者なり。然る以上、死は即ち生存の自覚の停止ならずや。」前年末に自記した一節。
12日間の北海道の滞在だった。
悲別ロマン座
悲別ロマン座(かなしべつロマンざ)は倉本聡原作・脚本によるテレビドラマ「昨日、悲別で」の舞台になった架空の建物。

実際は北海道歌志内市にある旧住友上歌鉱会館。1953年に職員の厚生施設として竣工、もともとは映画上映や舞台公演の会場として使用されていた。往時は東海林太郎をはじめとする、有名歌手の歌謡ショーが行われ、大いに賑わっていた。

以前は、期間限定ながら公開されていたが、現在は閉鎖されている。
(2010年4月撮影)
悲別ロマン座倉本聡
1935年、東京都出身。
脚本家・劇作家・演出家。東京大学文学部美学科卒業後、1959年ニッポン放送入社。1963年に退社後、脚本家として独立。1977年、富良野に移住。1984年から役者やシナリオライターを養成する私塾「富良野塾」を主宰。代表作に「北の国から」「前略おふくろ様」「昨日、悲別で」「ライスカレー」「優しい時間」「風のガーデン」など多数。
高橋揆一郎
高橋揆一郎文学碑
歌志内は市内を西に向かって二分して流れる「ペンケウタシュナイ川」の名に由来しており、アイヌ語で、「砂のたくさんある沢」という意味です。
高橋揆一郎は昭和3年歌志内で生まれた。昭和53年7月14日、『伸予』で道内在住の作家としてはじめて芥川賞を受賞しました。「生まれ育った故郷からは抜け出せない。私の本質は歌志内の風土そのものだ」と語っています。その後も北海道に根を下ろし、さまざまな作品を生み出しています。
 
明治十六年生まれの父菊五郎が妻子を引き連れて北海道を転々としたのち終焉の地 歌志内に落ちついたのは 昭和三年の春のことで 私はその直後に生まれた。ヤマの名は坂炭鉱。
そこが東のどんづまりだからカミをつけて上歌志内である。
つづめて上歌と呼ばれていた。東の空から日々まあたらしい日か゛昇った。歌志内なくして、わが文学なし

                平成五年春    高橋揆一郎
(歌志内市 歌志内公園)
独歩と佐々城信子

独歩は信子にぞっこんとなる。「吾等が愛は永久に変わらじ」と綴ってやまない信念が片時も揺るがないくらいの激情の虜になっていった。「高潔、多感、真摯、無邪気にして且つ同情に富み、学と文とを兼て、恋愛の幽邃、哀深、悲壮にして、春月の如き消息を解する女性」を望む。
独歩は信子の母親の頑強な抵抗にあって、強行手段に出た。独歩は北海道に行って独立自由の生活を営みたかったので、信子を友人とともに先に塩原に発たせ、独歩もこれを追って古町の会津屋で落ち合い、今後の結婚計画を練ることにした。が、そこへ乗りこんだのが信子の父親で、信子はいったんは東京へ戻らざるをえなくなった。
 そこで独歩は単身北海道へ渡る。函館から室蘭へ、さらに空知川に土地を選定するために、しだいに僻地に向かって新天地を探す。いつまでも北海道に来ない信子を放ってもおけず、独歩はやむなく東京へ戻り、「吾が恋愛の前途は殆ど暗黒なり」という状態になる。見かねた蘇峰が骨を折り蘇峰の媒酌で自宅で挙式を挙げることにこぎつける。
こうして逗子での二人の生活が始まった。けれども米と豆と小魚二匹の生活では、大家に育った派手好きの信子は耐え切れない。数カ月後、信子は従妹の相馬黒光のもとに行くと言ったまま、ぷっつり消息を絶ってしまった。やっと捜し当てた信子が病院のベッドで疲労困憊しているのを見て、離婚を余儀なくされる。傷心の独歩が
「自殺、自殺、余は自殺を欲す」と綴る。

深川 田園都市 北原白秋文学碑
北原白秋文学碑 一巳(いっちゃん)の屯田兵の村ならし 
やゝに夕づくこの眺望(みおろし)を

北原白秋文学碑(深川市丸山公園西展望台)
昭和48年8月1日建立
北原白秋は福岡の“油屋のトンカジョン(大きな坊ちゃん)”と呼ばれていた少年時代。中学伝習館に入学してからは、友人と回覧雑誌『蓬文』などを発行。“白秋”と号しました。こうした中で、家の火災や親友の自殺、さらには一教師との争いで卒業直前に退学するなど、傷心のうちに上京しました。白秋は大正10年に佐藤菊子と結婚し、翌年長男隆太郎が誕生。大正14年に長女篁子も生まれ、家庭的安息を得て、遠ざかっていた歌作にもかえりました

大正14年樺太観光の帰りに深川駅に下車した。
医院を開業していた歌人の鬼川俊蔵がいたからである。

3日間滞在した。
白秋は札幌でも「この道」を山田耕作の作曲で作る
♪ この道はいつか来た道
ああ、そうだよ、
あかしやの花が咲いている

あの丘はいつか見た丘
ああ、そうだよ、
ほら、白い時計台だよ。

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