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豊臣秀吉と女たち

豊臣秀吉の系図

秀吉は家柄の良い多くの側室を次ぎから次にと側室にした。

無類の女好きだった。
戦地にまで女を呼び寄せ、また戦いの途中でもそのためには労苦を惜しまない姿をみることができます。
諸侯貴顕の娘達300人を側室として大阪城に抱えていた(フロイス日本史より)

秀吉に縁した女性達。

名前  どんな女(人)だったか?
大政所 豊臣秀吉、秀長,旭姫らの生母。4人の子供をもうけ、夫と死別後再婚。後半生は秀吉のもとで過ごす。76歳で病没。
朝日姫 ねねの母親。秀吉を嫌い共に暮らすことを拒んだ。朝日はねねを頼らず、息子の家定と暮らし、孫の延俊がいた姫路城で、ねねに看取られることなく死んだと見られる。名前の朝日は尾張国朝日村からとった。朝日の家は分家で本家に男子がいなかったため継いだ。ねねもここが生まれ故郷である。
旭 姫 秀吉の妹。尾張の地侍、佐治日向守と結婚していたが徳川家康を服従させようとしていた秀吉によってむりやり離縁。家康にとって2度目の正室。
  と   も

(秀吉の栄華、
家族の悲劇を生む
百姓の吉房と夫婦になって秀次、秀勝、秀俊を生んだ。弟の秀吉が日本で一番の武士になるとは信じられないことだった。家族思いの秀吉が長男の秀次を阿波の名族、三好康長の養子とし、家督をつがしたために自分達も三好姓を名乗った。秀次は秀吉の甥っ子として、多いにとりたてられる。関白になった秀次を、謀反の罪ありとして秀吉は糾弾した。秀吉は淀殿に秀頼ができ、後継者と決めていた秀次が邪魔になったのだ。問題は秀次にもあった。秀頼誕生で小心な秀次の心は荒れ、粗暴な行動に出て、辻きりなどを平気で行い、殺生関白といわれた。28歳の秀次は高野山で死を命じられ、妻妾と子供5人を合わせ、30数人は3条川原で惨殺された。
次男の秀勝は17歳で丹波亀山城のの城主になり、お市の方の3女、お江与を妻に迎える。秀勝はその城では知行不足だと言い出した。秀吉はすぐに甲斐と信濃の2国を与える。「そんな遠くだったら可愛い息子にあえなくなって寂しい」という姉の気持ちはわかると岐阜城に変えた。秀勝は秀吉の朝鮮出兵に将として海を渡るが病死。
三男の秀俊が領地を流れる十津川で溺れ死ね。まだ17歳だった。暴虐な秀俊に前途を憂いた近臣が、秀俊を抱きかかえ、断崖から飛び降りたという。ともは3人の菩提を弔うために日秀と号し、京都東山に善正寺を建立、秀次の死後なお30年を生き、92歳で逝去。
北 政所
(ねね)
秀吉の正妻。結婚したのは13歳の時で以来37年連れ添った。子供には恵まれず、秀吉没後大阪城を出て京都に住む。宣教師レイスは「彼女は大変思慮深く、稀有な素質を備えていた」と記録してる。
淀  殿 浅井長政と信長の妹、お市の方の長女。お茶茶という。小谷落城の救出された。母は柴田勝家と再婚したが秀吉に攻められて自害。茶々は後に秀吉の側室となって、鶴松、秀頼を生んだ。大阪城落城の際自害した。
松の丸殿 最初、若狭守護武田元明に嫁いだが、このときには2人の子供も殺されたといわれている。このとき竜子は20歳をこえたばかりであった。明智光秀に与した夫が秀吉に殺されると、その出目と美貌のゆえに、秀吉に召し出された。秀吉没後は菩提を弔った京極竜子である。
まぁ  殿 前田利家の三女。人質として北庄城にいたが、破れた勝家とともに許婚の佐久間十蔵も自刀。やがて14歳で秀吉の側室になる。 秀吉死後、公家と結婚し、一子をもうけたが離別。金沢に帰り34歳で病没
豪   姫 前田利家の四女。子供のできなかった秀吉とねねが、生まれる前から性別を問わず貰い受ける約束をしていたといわれ、誕生と共に秀吉が懐の中に抱きかかえて帰ったと伝えられている。同じく養子であった宇喜多秀家と結婚した。関が原の合戦の後、夫と息子二人は八丈島に配流。実家に身をよせて金沢で過ごす。
秀吉を頼った宇喜田秀家の母(おふく)お鮮
  お 鮮 豊臣秀吉は備中高松城攻めの最中に、主君織田信長の死を知り、急ぎ毛利と和睦、奇跡ともいうべき、わずか10日の後、山崎にて明智光秀を打ち破った。そのまっただ中、秀吉は一人の女を愛し、わざわざ岡山城に一泊。ときに秀吉46歳、女は岡山城の”女城主”おふくである。おふくは最初、高田城の城主、三浦貞勝の妻であった。ところが19歳の時に城は落ちたのでおふくは息子と二人である村に身をひそめていた。このころ宇喜田直家は、主家を裏切り、娘や妹までも死に追いやる卑劣な陰謀をめぐらし、戦国大名にのしあがり、備中や美作の大半を手に入れた。お鮮は23歳で直家と再婚、
千   姫 徳川秀忠を父、浅井長政の三女お江与を母として伏見城に生まれ、わずか2歳で豊臣秀頼と婚姻を結び,8歳で結婚。それ以来大阪城に住む。大阪城落城のさい、救い出された。19歳のときであった。翌年桑名城主本多忠政の長男再婚。姫路城につき一男一女をもうけるが、長男は3歳で死亡。千姫は子供が早死にしたりする不幸が秀頼の千姫を諦められない思いが原因だと考えていました。「手厚く祭るから、是非恨みを抱かないで」と切々と書いた願文がある。夫忠刻も亡くなり30歳で天樹院と号し、江戸城内に住み、70歳で没す。
天秀尼 豊臣秀頼には側室との間に一男一女があったが男子の国松は斬首された。女児は命を救われ千姫の養女となって鎌倉の尼寺、東慶寺に入り生涯を送る。
後に東慶寺20世となって千姫の援助のもとに伽藍の整備に力を注ぎ37歳で没す。
豊臣秀次の女達 秀吉の姉「とも」の長男。秀吉の後継者として関白の職をゆずられたが謀反の疑いにより高野山にて切腹。実子秀頼秀吉とのもつれと考えられている。なんの罪もない秀次の妻妾子女・侍女たち三十数名が京都の三条河原で惨殺された。
豊臣家の
侍女たち
秀吉生前、大阪城内には300人ほどの侍女がいたという。いずれも、武士階級や公家出身の娘たちであった。彼女たちは城内の奥御殿のなかでさまざまな任務についていたが、なかには秀吉や北政所の側近として、大名たちからも名をよく知られ、大きな権勢をほこった女性もいた。秀吉没後、北政所が大阪城を去ると、あらたに淀殿つきの侍女たちが台頭し、豊臣家の侍女の構成は様変わりする。

★ 豊臣秀次の女たち
1595年7月3日秀次は謀反の嫌疑をかけられ、その9日後に追放が決まり、15日に高野山で切腹を命じられた。
一方の女子供は8日に聚楽第から徳永寿昌邸に移され、やがて小早川秀秋の丹波亀山城に護送された。
そして8月2日運命の日を迎える。
 な ま え                ど ん な ひ と ?
一の台 父・菊池晴季は娘を秀吉に差し出した。彼女は一度公家に嫁ぎ、おみやを産んだが夫を亡くしていた。彼女は秀吉の側室になっが病気になり、秀吉のもとを去った。一の台はやがておみやを連れて聚楽第の人となった。秀次はおみやも自分のものとしてしまった。この母子は18歳の開きがあったとされているが同じ男を夫として同じ屋根の下に住んだ。この一の台の事実を知った秀吉の怒りが3条川原虐殺に繋がったと指摘している。
 駒 姫 南部家の内紛に兵力5000の9戸に10万を越す大部隊を送る。
その時の総大将が最上義光のもとによる。11歳になる駒姫に給仕をさせる。成人になった駒姫は故郷山形を後にした。義光もまた甥の伊達政宗も謀反の嫌疑をうけた。何もしていないのに不条理にも首を切られる。
「罪をきる弥陀の剣にかかる身のなにか5つのさわりあるべき」の辞世の句。

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