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 徳川家康と女たち


家康は75年の生涯で2人の側室と少なくても16人以上の側室がいた。

自由な立場で気にいった者を側室にした。
家康が愛した側室には身分のある女は少なく、関が原の戦いで天下を握ってからは孫のような側室が多いが前半では夫に死なれた未亡人が多数を占める。家門の繁栄のために「子供をたくさん欲しい」と出産経験のある、美しい未亡人を側室にした。
この側室の中には鷹狩にも参加し、戦場にも行く心身共に堅固な女がめだつ。
単にかわいいというだけでなく男と比べても負けないのがこの時期の側室である。


阿茶局・お牟須局・茶阿局は秀吉政権下における浜松城・駿府城時代の側室3人衆と呼ばれ、強い政治力を持つようになる。
名前  どんな女(人)だったか?
 市場姫

(家康とは
3つ違いの妹
家康とは3つ違いの妹である。家康は市場姫を政略の道具に使った。17歳で吉良家の次男、荒川義弘に嫁がせる。家康が今川家の吉良一族と戦った時、義広は家康に味方した。義広は再婚だったが母と同じように2児の継母になる。やがて一向一揆が三河を襲い、義広も家康を敵にする。義広は破れ、逃げまとい、やがて病気になるが二人の間には3人の子供ができる。6年を共にいきた夫に死に別れて岡崎に戻るが、母のもとにではなく酒井忠次の屋敷に置かれる。やがて大和郡山の筒井順慶の側室になる。
 築山殿

(家康の妻)
今川で人質になっていた16歳の時に義元の姪築山殿と結婚。
信長が義元を桶狭間で破り、人質をとかれた家康は今川を捨て信長と同盟を結んだために神経を苛立たせる。嫡子信康に信長の娘徳姫をむかえたことで、姑と嫁との間が険悪になり、これが信長の怒りをかい、嫡子とともに築山は殺される。
 朝日姫 天下をねらう秀吉が小牧長久の戦いの調和に無理に家康のもとに嫁ぐ。朝日も家康も44歳で浜松城に住む。朝日姫には20年つれそった夫がいたが、引き裂かれた。4年後に悲しみのまま病没。
 茶阿局

家康の6男
忠輝を産んだ

茶阿はお八と呼ばれ、大井川の宿場町として繁栄する鋳物師の後妻になった。先妻が残した子、二人がおり娘一人を産んだ。夫は殺された。彼女は家康に夫の非業の死を訴えでて家康の心を動かした。茶阿は家康の6男、忠輝を産んだ。忠輝は越後高田の城主となり伊達政宗の娘五郎八(いろは)姫を正室に迎えた。だが彼は性格が乱暴で大坂夏の陣では出撃の時期を逃して功名をたてられず、おまけに将軍直属の旗本を家来が殺し、その犯人に身代わりを立てて家康を激怒させた。家康は死ね前に茶阿を呼んで忠輝の不行跡を言う。家康の死後忠輝は流罪になる。茶阿の晩年は寂しいものであった
お万の方

10男頼宣・
11男頼房
伊豆で育ったお万の方は16,7歳のころ、家康と出会う。26歳で10男頼宣を、11男頼房をこの城で出産。そして日蓮を信奉する。お万は一度死を覚悟して家康に歯向かったことがある。
家康は浄土宗で宗論を挑む日蓮宗を快く思わなかった。江戸城での問答の直前に、日蓮宗の論者を武士に襲わせ、浄土宗を勝利させ、法主を死刑にしようとしたとき、師が死ねときはお万も死ねといって家康に頼む。それで放免される。お万は77歳まで生きる
阿茶局 父は飯田直政。今川家の神尾忠重に嫁ぐ。だが彼女が23歳の時、4歳になる一人息子の久光を置いて死んだ。家康に母子共に召しだされ、阿茶は側室に、息子は幼い秀忠に仕えた。彼女は武家の娘だっただけに、その美貌に加え、馬術や武術にも優れていた。小牧長久手の戦いにも30歳の時に参加した。このとき彼女は家康の子供を身ごもっていたが。戦場において流産し、ついに子供を産めなくなる、この阿茶を家康は哀れみ、自分をいつくしんでくれる家康に力の限り尽くす女になる。関が原合戦後、淀殿との交渉する、家康は死に際に、彼女に出家を認めなかった。83歳で亡くなるまで秀忠、家光の将軍上洛にも従い、また朝廷と幕府の間に立って働く。
お愛の方
(西郷局
殿藤助長忠の娘で、家康の2女督姫の生母である。夫の西郷が甲斐の武田勢との戦いで討ち死にした。慶長11年(1606)5月14日伏見で没した。法名 蓮葉院日浄。京都本願寺に葬られている。督姫ははじめ北条氏直の室となり、後に池田輝政の継室となった
お弁須 1592年秀吉は挑戦出兵を命じたため、家康について名護屋城にて世話をする。
淀殿などと同じように妊娠・名護屋の旅館で出産しょうとして難産の末・母子ともに亡くなる

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