私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります戦国の女たち、はじめに戻ります



武田信玄と女たち

名前  どんな女(人)だったか?
大井夫人 息子信玄が夫を追放・孤独な晩年。
大井夫人はまず、定恵院殿を生み、その後に晴信・信繁・信廉。
父が芸術を愛する人だったので子供達を連れて甲府から古長禅寺に足を運び、学問や兵学を学ばせました。そんな中、天文十年(1541)に夫の信虎が嫡男・晴信によって甲斐から追放されるという事件が起こります。大井夫人は甲斐にとどまり、流浪する夫と生き別れ。除髪して躑躅ヶ崎の北曲輪に住み、「御北様」と呼ばれる。晩年は三人の子供の支えられながら、56歳で躑躅ヶ崎にて没。
三条夫人 武田信玄正室”西方の美人”と呼ばれ三男二女をもうける。
三条公頼の次女で姉は細川晴元の夫人・妹は本願寺顕佐の夫人(裏方)であったがゆったりとした性格の、教養があってもそれを鼻にかけるような姫ではなかった。晴信はかつて上杉朝興の娘を妻として迎えていたが難産が原因で亡くしていたので16歳で正妻となる。嫡男の義信は父と意見が会わず当時の義信は外様の家臣団を優遇する信玄に対し、(今川義元が織田信長に討たれたことで、)、これからどのようにするかということで意見が対立する。やがて信玄は義信を幽閉し、二年後に義信は自害する。次男・竜宝(海野信親)は盲目。
諏訪御料人 信玄の側室。諏訪頼重の娘。天文11年(1542)父頼重が信玄に滅ぼされたのち、信玄の側室となる。天文15年勝頼を産む。
南松院 南松院殿は信虎の姉でで穴山氏は、穴山(現・韮崎市)に居してそれを氏郷とした。穴山と武田とは婚姻を繰り返していたのでその関係から穴山に嫁いだ。勝頼のふがいなさに見切りをつけて徳川家康につく。
見性院 武田家の存続に執念を燃やす
信虎の次女で信玄の姉が産んだ穴山梅雪に嫁いだ。妾腹の勝頼ではなく、武田正統の血が流れている自分たちこそ武田家を守る責任があると感じていた。
敗北が明らかな勝頼を捨てて家康につくように説得されて穴山は家康に属した。見性院は名前が途絶えることを懸念したが家康の配慮で、養女を家康の側室になっていた。その産んだ家康の5男は21歳で亡くなる。
二代将軍秀忠が女中”お静”に産ませた子供・保科正行の養育をする。