私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります戦国の女たち、はじめに戻ります

                   
ここでは「女の棲家」と分けて作りました。いろんな女性が登場します。PARTU
皆様から教えて頂いた「好きな戦国の女たち」をアップしました。
参考図書 石丸晶子著「中世・戦国を生きた女たち」

ともえ御前 片手に恋を、片手に剣を、馬にまたがった巴御前の勇姿も、歴史のひと駒だった。その巴は、木曾谷の土豪中原兼遠の娘である。そして恋の相手義仲は、二歳の時から巴の父にかくまわれ、二十七歳で青年大将になるまで、巴たちと寝食をともにした仲であった。巴の父は義仲に源氏の血をひく娘をめあわせ、その間にすでに八歳の息子(義高)まであったが、巴にとっては問題ではなかった。戦いは決して義仲には有利ではなく、宇治川の戦いで源義経に破れ敵中を突破して北陸へと落ちのびるとき、巴御前を入れて主従わずか七騎になっていたという。琵琶湖畔の粟津まで逃げのびたのもつかの間、敵が急追してきた時、義仲は巴を諭した。「木曾殿の最後の戦さに女を連れていたと言われるのも心外なり」これが巴との最後の別れだったという。 (OTAさまより)
細川ガラシャ夫人 名前を玉といい明智光秀の三女 。 16歳の織田信長 のすすめで、勝龍寺城主細川藤孝の 長子忠興のもとに輿入れしてきました。、父明智光秀がむほんを起こし「本能寺の変」が起こりま した。山崎の合戦で戦って敗れ、一時勝龍寺城に逃げ込みますが、結局近江坂 本城に帰る途中戦死し、その一族も坂本城とともに滅んでしまいました。 このことにより、玉は生まれたばかりの子供からも引き離されと言われてい ます。 その後、幽閉を解かれて大阪城下玉造の細川家屋敷に住むようになってから も、側室おりょうの存在を知ったり、夫忠興の嫉妬心のため屋敷から外出が 許されないなどさまざまな困難があるなかで、、ついには洗礼を受け、細川ガラシャ(日本語 で言えば恵みという意味)夫人と呼ばれるようになります。38歳の生涯で ありました。辞世の句としては"ちりぬべき時知りてこそ世の中の花も花 なれ人も人なれ"
このように、細川ガラシャ夫人は、日本の歴史の大きなうねりのなかに、そ の名を残す数少ない女性の一人で、大変な美人であったと言われています。(shinoさま)
常盤御前 常盤は、夫義朝に先立たれただけでなく、子供を殺されては片時も生きていることは出来ない、身を隠そうと思い立ち、老いたる母にも、また信用できないからと召使の女たちにも知らせず、今若と乙若を歩ませ、牛若を胸に抱いて宿所を出て夜の町へとさまよい出た。牛若とは後の義経である。
 しかし、老母が六波羅の手に捕まったことを聞いて、迷いに迷った末に、三人の子供を連れて六波羅に出頭した。そして常盤の美貌にみとれた平清盛によって母子ともども命だけは許されたという。のちに常盤は清盛との間に、女子一人(廊の御方)を儲けた。
しかし、ほどなく清盛に嫌われて遠ざけられ、一条大蔵卿藤原長成と結婚した(雪子さまより)
幾 松 父の死後上京して、三本木・吉田屋の芸妓竹中かのの妹分となり、14歳の時に二代目幾松を襲名した。幾松は、なじみの小間物商広戸甚助から桂小五郎(木戸孝允)を紹介されます。蛤御門の戦いで敗れ、新選組の探索を受けていた桂を、幾松はたびたび救いました。維新後、幾松は木戸夫人となり松子と名乗りました。明治10年に木戸が没すると木屋町別邸(幾松旅館)に移り住み、剃髪して翠香院と号しました。明治19年没。桂小五郎は病弱なせいもあって「逃げの小五郎」というあだながあり、神経質な性格で、猜疑心が強かった。最初の妻に逃げられ大恋愛の末に浮気される。南條範夫の本によれば小五郎との結婚生活に失望した幾松は一度ならず役者との浮気に走ったことがあると書かれています。(京子さまより)
北条 政子 夫源頼朝の女性問題で悩まされる。夫を始め、すべての子供に先だたれたのが63歳。尼将軍と呼ばれるほどの政治力をもったけれども、仕方なくふりかかる火の粉を払うために自分が難局に対処し、鎌倉幕府を守りぬいて、北条の自分の兄弟達に時代を譲った。(夢子さまより)
濃 姫 1548年に成立した斎藤・織田間の和議の証として、翌年15才で織田家嫡子だった信長に嫁ぎました。嫁ぐ際に父より短刀を渡され、信長が本物のうつけなら刺し殺せと言ったところ、父上を殺す事になるかもしれないと言ったという説話は有名。道三が戦死した際には、娘婿たる信長へ所領を譲るという遺言を残したといいます。しかし、実家を失い、子もなく、翌年生駒吉乃が嫡子を生んだ事もあって、彼女の記述は以後ほとんどありません(佳代子さまより)
日野 富子 日野富子は永享十二年(1440)、日野重正の娘として生まれた。日野家は代々の足利将軍夫人を一族からだす習慣となっていた。富子は十六歳で八代将軍義政の正室となった。義政はその時二十歳。義政にはすでに今参局(お今)の他何人かの側室がいた。義政との間に女子までもうけ、義政の母・日野重子をしのぐ勢力をふるっていた。二十歳のとき、富子は男子(女子説もある)を産んだが、その子は数日で死んでしまう。「これはお今の呪いによる」ということになり、今参局は琵琶湖の沖ノ島に流されることになった。お今はそこへ行く途中自ら生命を絶った。その背後には富子がいた。政治に無関心な義政は、女色と酒のほかは風流な庭園造りに精をだしていた。富子が嫁いで八年、義政は自らの子を諦め、異母弟を還俗させて将軍職を譲るべく、養嗣子にした。義視である。管領細川勝元に後見を頼み、たとえ今後、実子が生まれても将軍にはせずに仏門に入れると約束したのである。この約束が波乱の始まりであった。間もなく富子は身ごもり、翌年男子を産んだ。のちの義尚である。将軍後継者問題にからむ細川・山名の対立は、応仁の乱となり、11年続く。「夫は頼りにならず、頼りになるのは金だけだと、武将たちに高利で貸し付けたり、米倉を建てて収穫期に米を買い、米価が上がったところで売りさばいて蓄財したわ」 我が子・義尚は25歳の生涯を閉じました日野富子は稀代の悪女といわれている。富子が57歳で亡くなった事は確かなのですが、晩年をどこで過ごしていたのかは、これ程の女性でありながら実ははっきりしていません。(ライチさまより)
建礼門院 壇ノ浦の合戦に敗れた平家一門滅亡の中で助けられた徳子は、その後出家してヒロインとなった。平清盛の次女16歳のときに11歳の高倉天皇の皇后になる。聖徳太子が建てた寂光院29歳から亡くなる58歳まで住む。高倉天皇の寵愛を受けて遠慮がちは小督を、慰めたりする優しい性格だった。安徳天皇や、平家一門の霊を、聖職者として役割があった。きく様より
小  督 徳子付きの女官だった。高倉天皇は雑司女「葵の前」を好きになるが、身分を反対されて、落ち込む天皇に徳子が小督をさしだす。小督は清盛の4女をめとっていた隆房と恋人関係にあった。清盛の怒りにふれて尼となって追放される。琴の名手と言われ、やがて宮中に戻り子どももできるが
本当に尼にされて23才だった。高倉天皇は21才で亡くなる。
(ふじ様より)

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