私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります戦国の女たち、はじめに戻ります

                   
ここでは「女の棲家」と分けて作りました。
いろんな女性が登場します。PARTT

吉野太夫 本名松田徳子。父母に早くから死に別れ芸子として育てられる。吉野の艶名は国内だけでなく、遠く中国にまで聞こえたといわれるが、美しいばかりでなく情深かったことは西鶴の「好色一代男」に逸話がある。七条の刀鍛冶の弟子が、評判の吉野を垣間見てすっかり恋の病に落ちてしまった。刀鍛治の弟子の分際ではとても会える相手ではない。ところがそのことを伝え聞いた吉野は「それほどの気持ちとは・・・」と深く感じ入り、ひそかにその男を呼び入れて一晩懇ろにもてなした。一生かけての思いを果たした男は「今は世に何の心残りもなし」と翌日桂川に身を投げて果てた、という。佐野重孝(灰屋紹益)は本阿弥家の生まれで京の町衆を代表する文化人であった。紹益は彼女を身請けした。紹益二十二歳、吉野は二十六歳の時である。しかし、二人の仲は佐野家では認められず、紹益は勘当される。ある日、紹益の養父・紹由が外出した時、偶然に吉野に出会い、現れた吉野の美しさと物腰の艶やかな上品さに紹由はすっかり魅せられてしまった。即座に二人の仲を正式に許した。この親子の仲をとりもったのが光悦だともいわれている
おうの 晋作が25歳の時でした。晋作には「おうの」という恋人がいました。彼女は20歳で山口県下関市で芸者をしていました。晋作には妻、雅子がいた。おうのは右を見たらいつまでも右をみてるような女性である。おそらく晋作にとって29年(?)の生涯の中でこれが最初で最後の純粋な恋愛だった。晋作が29歳で他界すると彼女は髪を切って仏門にはいり、67歳で亡くなるまでの長い時間を下関の東行庵で晋作の菩提を弔いながら過ごしました。高杉晋作が亡くなったときおうのさんは24歳だった。
池玉蘭    (1728-1784) 池大雅の妻。名は町。大雅と共に柳沢淇園に画を学び山水、蘭、竹、梅、菊などを得意とした。冷泉家に学び和歌もよくした。池大雅の通称は秋平。京都に生まれたが4歳のときに父と死別、西陣で働く母によって育てられた。彼女は大雅と結婚してから夫を師と仰ぎ、本格的に画技を学び始めた、町の服装はいつも質素、貧しかったが自分や夫の画料を貧しい人の為に使った。子供がいなかったので大雅なきあと寺小屋を開いた。
大石 理玖 大石内蔵助の妻。 「祇園祭は素晴らしい。お前にみせてやりたい」。討ち入りを果たす為に山科で夫と別れるときに理玖は身ごもっていました。内蔵助切腹の後、1709年、将軍・綱吉の死による大赦で父を知らない内蔵介の子、大三郎12歳のとき、広島藩に1500石で仕官がかなった。理玖は68歳で生涯を終える。大石家はその後明治の世まで繁栄する。
山中 なみ 武の道を鹿助に説いた母山中鹿之助(幸盛)」の父は山中満幸といい、鹿之介が生まれた翌年病で亡くなっています。鹿之介は13才で手柄を上げたといわれ、山中家の家督を継ぎます。鹿之介を一躍有名にしたのは、毛利の益田越中守家臣・品川大膳との「川中島(富田川)の一騎打ち」で、みごと首を取りました。1566年、毛利に尼子が敗れ鹿之介は浪人となりますが、京都に隠れていた生き残り「尼子勝久」を探し出し、翌年毛利に立向かうも敗れ降参。しかし、隙を見て脱出し織田信長に助けをもとめてきたので、信長は鹿之介らを播州上月城に入城させ守らせました。1578年6月、秀吉は信長の命により上月城より兵を引いたため上月城は孤立し、落城、尼子勝久は自刃し尼子は滅びました。その後、鹿之助と妻子、家臣60名を備中松山城に護送の途中、落合町阿部付近の高梁川河川で首をはねられ無念の終期となりました。34歳でした。なみは山中満幸と結婚して二人の息子を産む。兄の子供はは体が弱かったために鹿之助に夢を託した。家が貧しかったのでなみは麻を植え、それで着物を作って子供にきせて自分はボロをきていた。息子を側面から支え・武将の心を教えた。毛利家の大軍が富田城を包囲する中、なみは鹿之助の嫁、身重だった千秋をつれて篭城し、嫁は長女八重を産む。なみは45歳で死亡。「我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈ったといわれる。娘二人が遺児として残り、その子孫は大阪の鴻池家になったとする。また姓を「三日月」と改め、これをミカヅキと読ませる一族とミカゲと読ませる一族に分かれたという。
春日の局 名前はお福(春日の局)と言う。三日天下で終わる明智光秀の重臣・斉藤利三の末娘として丹波国黒井城下の居館で生まれた。お福はここで4才まで過ごした。本能寺の変から逆境に落ちた。父利三が敗軍の将として切腹の果てに京の六条河原で処刑され、母、姉達と流転の人生になった。身辺に危険が迫ると土佐の長宗我部元親を頼った。ここで7年の歳月が流れ、稲葉一鉄の長男重通の娘婿の稲葉正成に後妻として嫁いだのは17才の時であった。稲葉は秀吉の紀州征伐に参加して秀吉の直臣となった。その後、小早川秀秋の付家老となつて5万石を領した。慶長5年の関ヶ原の戦の時、小早川秀秋が家康に寝返ったのは稲葉正成の差し金といわれている。秀秋が呵責に耐えかねて狂死した。秀秋に裏切りをそそのかした汚名とともに正成は浪人となった。家康が関ヶ原の戦で自分に味方した付家老の稲葉正成の妻の覆歴に目を止めて、お福を乳母として選んだようである。
竹千代(家光)は生まれながらにして三代将軍となる運命を背負わされていた。しかしこの嫡子は虚弱体質で丈夫ではなかった。生母お江の方も最初は可愛がったが次第に次男の国松(忠長)を跡目にする為、優遇する。春日の局は面白くなかったので、駿府の家康に拝謁して直訴した。家康は「戦国時代ならともかく、天下太平の世の中には利発者はいらない」と秀忠の前で、はっきり言ったので全員が家光を認めた。お福も家光に母親以上の愛情をもって育てた。乳離れが済むとお払い箱になるのが普通だが、お福はそのまま江戸城に留まって守役に徹した。春日局は家康を手本とするように教育した。この家光は30才くらいまで女性に興味を示さなかった。側室を持つように進めて、やっと寛永14年閏3月5日に最初の子、千代姫が誕生した。春日の局には稲葉正成との間に正勝、正利の二男があったが、彼女が三代将軍家光の乳母となった時に正勝は家光の小姓に登用され、長じて老中に昇進、1633年に小田原城主となっているものの、翌年に38歳で死去。嫡子の正則はわずか11歳だったが、春日局の計らいで斎藤利宗(春日局の兄)を後見人として相続が許された。春日局のもう一人の子正利は、家光の弟忠長に仕えたが、忠長が蟄居を命ぜられた時、細川忠利に預けられ、終生赦されることなく73歳の生涯を閉じている。
春日の局は65歳で死去・痘瘡にかかった家光の命とひきかえに、薬断ちを守ったままの最後だった
桂昌院 1627年(寛永四年)に京都堀川の八百屋仁右衛門の次女でお玉。仁右衛門が亡くなると、お玉の母は本庄宗正の後妻になる。成長したお玉は16歳のとき、大奥の於万の方が部屋子を一人ほしいと言っているのを彼女の母親が前に奉公していた先の二条家できき、三代将軍家光の側妾お万の方の侍女となるため江戸へ下りました。お玉は家光も気に入ったので、秋野と名を変えて将軍付きの中臈(ちゅうろう)となったのです。まもなく彼女は懐妊し、徳松と呼ばれる男子を出産しました。先にお楽の方がうんだ5歳年上の竹千代がいました。 徳松が6歳になったとき、3代将軍家光が病死しました。お玉は桂昌院と名を改めました。やがて綱吉と共に江戸藩邸に住む。 一六八〇年(延宝八年)八月、桂昌院五四歳の時、我が子綱吉が五代将軍に就任。江戸城中三之丸に居を移しました。彼女の権力を象徴する最も有名なお話として「生類憐れみの令」があります。綱吉に嫡子がないのを心配した桂昌院が、僧 ・隆光の「殺生を禁じて生き物を大切にすれば子が授かる。」との言葉を信じ、綱吉に訴えたことから始まった悪政とされています。
蓮月尼 薄墨の衣に身をつつみ、見て聞くものは野山の花か鳥の声。人の世のとらわれから解き放たれたすがすがしさがただよう。これは世俗を離れた蓮月尼の姿である。太田垣蓮月(1791〜1875)は,名を誠(のぶ)という。花街・三本松の生母と別れ・生後十日余りで太田垣常右衛門の養女となる。何不自由のない生活をする。8、9才にして丹波亀山城にご奉公に出る。このことが後に才色兼備の女性として成長する基礎を築く元となる。17才で結婚し二十五才で夫に先立たれる。不幸の始まりは・長男鉄太郎が生後20日で死亡。長女、次女も生まれては死亡。そして夫・望古との離縁。29才にて再婚するも33才にして夫の彦根藩・石川重三郎は病没。葬儀の後、養父と共に、知恩院大僧正により剃髪式を受け、文政六年(1823)33歳で出家して蓮月を名乗る。孤独を求めて,生涯三十数回住まいを替えたが,晩年は地神光院境内に住み,歌を詠み陶器を焼き茶を点て,静かに余生を送った。

斉藤道三の息子・斉藤義竜の母⇒深芳野か?稲葉の娘か?
貧しい浪人の子に生まれ。油売りの商人から、北条早雲にあこがれて武士になった斉藤道三は15年の
間に美濃の国とりに成功した。だが嫡子・義竜との長良川をはさんだ骨肉の戦いに破れ、1556年63歳で
首をうたれて死んだ。何故息子は父を殺したのか?
中野竹子
幕末の戊辰戦争、会津戦争で戦ったのは、武士だけではなかった。女たちも武器を手にとって戦った。「娘子軍」の一員として奮闘した中野竹子は、美人としても知られていた。中野竹子はなぎなたを手に先頭に立って奮闘した。母、こう子。まだ16の妹・優子、家老神保修理の妻・雪子らも一緒である。竹子は奮闘むなしく、敵の銃弾を額に受け、散った。出陣する際薙刀に巻き付けていたという辞世の句「武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」が刻まれている

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