私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります戦国の女たち、はじめに戻ります




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(日本史堂堂より)
  

順位 名 前
5位   和泉式部
王朝文学が花開いた平安時代。中流貴族の出身で、夫がありながら、和歌の実力で天皇の2人の皇子と恋を成就。他にも幾多の恋愛遍歴で人生を謳歌した。
当時の娘たちが幸福のパタ−ンは3つありました。
ひとつは同じ階級同士の結婚。ただし当時は一夫多妻制。夫が訪ねてこなくなるという待つ女になりがち。二番目は身分の高い殿上人や皇室の男性との恋愛。
厳格な身分制度から生まれるやっかみや嫉妬など、問題100題を覚悟する選択。
三番目は後宮のサロンで朝廷や上級貴族に仕える、キャリアウーマンとしての生き方。
和泉式部は、結局この三つの道すべてを生きたのであった。
4位 北条政子
夫源頼朝のなきあと、尼将軍として鎌倉幕府の政治をつかさどった。
東国の小さな豪族の娘として生まれた政子は、当時流人だった源頼朝と恋に落ち、
親の反対を押し切って駆け落ち同然の結婚をした。
繰り返される頼朝の浮気。東国武士は一夫一婦制が厳格に守られていた。
二人の亀裂は避けようがなかった。大切な娘・大姫は、父・頼朝に許嫁・木曽義高を殺され、病死する。許嫁の父は木曽義仲。敵対した義仲を討つことになった頼朝は、将来の禍根を絶つために、娘の婚約者をも葬ったのであった。
さらに夫・頼朝の死後、息子である二代将軍・頼家、三代将軍・実朝も、権力の座をめぐって暗殺される。こうして動乱の中、家族のすべてを失うのであった。
3位 和 宮
幕末、朝廷と幕府の関係改善を狙った「公武合体策」によって、和宮は、十四代将軍・徳川家茂との政略結婚を強いられた。すでに決まっていた婚約を破棄してまで、無理やり嫁がされたことで、「悲劇の皇女」と呼ばれている。「鳥羽・伏見の戦い」に敗れ、江戸に逃げ帰った慶喜が、朝廷に出そうとしていた嘆願書を厳密にチェック。徹底した恭順と、自己弁護は一切しないことをアドバイスした。そして自らも嘆願書を書く。「今回のことは、慶喜が悪いのであり、いかようにも罰してください。しかし、徳川家が最後まで朝廷の汚名をきらされては、私はじつに残念でなりません(中略)。徳川家存続のためならば、私は命をおしみません。」
和宮は徳川家の存続を見届けて京都に戻る。
2位 日野富子
室町時代の将軍足利義正の妻。
窮乏した室町幕府の財政を夫になりかわり再建した。十年もの長きにわたる戦乱の最中、富子は敵見方の区別なく大名たちに高利で金を貸し付けた。
当時の兵士は流浪人や農民が金で雇われる傭兵が多く、戦いには金が必要だったのだ。
関所を設けて金を集め、商人たちから税をとる。ためた金は、現在の金額でおよそ70億円。
だが、夫・義正は銀閣寺の造営に熱中し、息子・義尚は酒におぼれる。
将軍のつとめをはたさない二人にかわり、富子は集めた金の力で、なりふりかまわず
室町幕府を支えようとするのだった。しかし時代は容赦なく戦国の世へと地殻変動をおこしてゆく
1位 卑弥呼
古代至上、最も有名な女性。邪馬台国の女王卑弥呼。
邪馬台国の所在地については九州説、畿内説がありますが、『魏志倭人伝』には九州北部の国々が連合政権に加わっていることが記されているので、畿内説であればヤマト王権の萌芽(ほうが)とみることができます。
卑弥呼は宗教的権威によって支配を行ない、実際の政治は「男弟」がつかさどっていたと考えられます。西暦247年・魏は卑弥呼に援軍を派遣しますが、この内乱のなかで卑弥呼は死にます。死因については不明です。


参考   日野富子


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