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戦国の女たち 

松江城 堀尾一族の女たち

松江城を築き、水の都を作ったのは・信長・秀吉に仕え、豊臣政権で三老中の一人となった堀尾吉晴だった。だが堀尾氏は徳川政権の下、松江でわずか三代・三十三年の短い命しか保てなかった。嫡子がなく廃絶となり、堀尾氏は滅びた。
堀尾吉晴は秀吉亡きあと、家康に通じ、関が原合戦の寸前、石田三成の親友である加賀井弥八に酒の席で切り付けられ・相手を殺すが、五十五歳の体に十七創も傷をうける。
24歳の嫡子忠氏(ただうじ)が家康の軍に従う。
出雲・隠岐をもらう。忠氏は城を求めて毎日のように松江と月山富田との間20キロ岩坂街道をを馬でいききしていました。
1604年八月四日・神魂神社にある池を観察しようとする。神官が「あの池に近寄ると必ず異変があるので、おやめください」ととめたが「予の治める土地にさような所があってはならね」といって結局、蝮にかまれて死ぬ。二十八歳だった。
忠氏の嫡男・忠清が六歳で跡継ぎをする。
悲しみに沈む吉晴は後見人として、再び政務をみなければならなくなりました。吉晴は築城を急ぎました。亀田山に築城すれば、亡き忠氏にせめてもの供養になる・・。
普請は慶長十二年(1607)から始まり、突貫工事で進められました。
堀尾氏は三代忠晴をもって断絶。
ついで若狭小浜から入部した京極忠高も、一代限りで断絶しました。

いずれも嗣子がなかったからです
名前 どんな女(人)だったか?
小那姫   忠氏の妹・十七歳。婦人病に苦しんでいた。
そのために両親は薬や名医を呼んだりしたが効き目はなかった。
秋の月のない夜・姫は身を池に投げ・乳母が弔う。
勝 山 忠氏の姉の勝山は「息子を藩主に」とお家騒動を起こす。夫の河内守は隠岐に流され死。
勝山は愛する者を失い、悔恨の日を送る。
大 万殿 六十一歳の吉晴とともにお家騒動の不幸を乗り越えて亡き息子の夢を叶えるため慶長十六年冬、五年の短期間で城と城下町が完成しました。
松江城とか千鳥城と呼ばれ、山陰道では現存する唯一の城郭建築です。大万殿は乗馬姿に鉢巻をして・腰元たちに長刀をもたせ、普請現場を見回る。吉晴は六十五歳で亡くなったために松江城は未完のままだったが、孫の忠清が十三歳で城主になる。大万殿は織田一族の津田党の女としかわかっていない。吉晴は素晴らしい戦歴をあげてきたが性質は温和だった。これに対して彼女は積極的で性格もきつく焼餅やきだった。
前田玄以の娘 忠氏の正室蝮に噛まれて死ぬという信じられない災難で二十八歳の忠氏を亡くした。息子二人を産んだが次男は早死した。長男は少年藩主になった。父の前田玄以は豊臣の五奉行の一人として、関が原の戦いでは石田三成に味方したが、三成挙兵を家康に知らせたとして丹波亀山城をもらう。前田玄以はその二年後に亡くなり、弟の茂勝が八上城をまかされるが、茂勝はほとんど京都伏見に住み、酒と女に溺れた。
そして家老を手討ちにするなど、常軌を逸した行動に出て領地を没収される二十七歳だった。その弟、茂勝は隠岐に流され四十歳まで生きた。
金助の母 1590年・秀吉は小田原の北条氏を責めるのにあたって堀尾吉晴は一族を率いて従軍。金助は十八歳。金助はその陣中で病にかかって死亡。堀尾吉晴はこの金助のために京都妙心寺にお寺を建てる。一方金助を見送った母も息子の供養を願って架橋・その橋をみることなく金助の母は橋の完成前に亡くなった。