私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります  戦国の女たち、はじめに戻ります        戦国の女たち

前田利家と女たち

前田利家は、幼名を「犬千代」という。以後、かぶき者と言われた利家は織田信長、豊臣秀吉とともに戦国乱世を駆け抜ける。15歳で織田信長に仕えて頭角をあらわす。しかし、まつとの結婚の翌年、利家は信長の逆りんに触れる。無礼をはたらいた信長の側近を切り捨てたため、信長が激怒したのだ。織田軍から勘当された利家は流浪生活を余儀なくされる。単独で馳せ参じた桶狭間の合戦での命懸けの奮戦も空しく、ようやく許され織田家への帰参を果 たしたのは、二年後のことだった。1568年(永禄12年)、利家は、信長の命で前田家の長男・利久に代わり家督を継ぐ。予期せず舞い込んだ家督相続だったが、利家は上の兄たちと争うことを嫌い、夫婦共に気配りを絶やさなかったという。
中略利家の病状は重くなり、家康が利家を見舞った。このとき、利家が長男・利長に「心得ているな」と念を押すと、利長は「もてなしの準備は整っています」と答えた。利家は、家康に後事を託した。家康が帰ると、利家は布団の中から刀を取り出し、差し違えてでも家康を斬るつもりだったことを利長に告げた。そして、機を読みとれなかった息子に「お前に器量 が有れば家康を生かして帰しはしなかったのに」と嘆いたという。利家は63歳でこの世を去った。妻・芳春院(まつ)に筆記させた遺言にしたがって、遺体は金沢の野田山に埋葬された。

「侍は家をたてることが一番です。片意地は捨てなさい。私は年をとり、覚悟もできています。
母を思う余り、家をつぶしてはなりません。そなたはこの母を捨てなさい」
−「まつ」は言った
まつから芳春院と号した五十四歳の彼女は京・伏見から江戸に人質として旅たった。
名前 どんな女(人)だったか?
まつ
(芳春院)
母が利家の生母・長齢院の姉で、利家とは従兄妹同士になる。1558年(永禄元年)に十歳違いの利家に嫁いだ。若干十二歳の花嫁だが、容姿は美しく、快活で社交的。おまけに読み書きやそろばん、和歌や武芸などをたしなむ才色兼備の女性だった。また気丈の強い人だったともいわれる。利家の領国支配を確立した末森城の合戦の際には、「末森の城が落ちたら生きて帰るな。その時には、私も諸将の妻子とこの金沢城に火を放ち自害しよう」と言って、激励した。天正11(1583) 年の賤ケ岳の合戦で柴田勝家方に与した利家が敗走したとき、和議を講ずるため越前府中で秀吉と応酬したり、末森城の攻めの時は蓄財に努めていた利家に「金銀を召し連れて槍を突かせたら」と皮肉って鼓舞したというエピソードも残っている。加賀藩主となった利家は制度改革による農業の振興を図り、尾張から優秀な職人を多数招き、産業、特産物の育成にも力を注ぐ等、藩民の生活向上を推進しました。秀吉が信長亡き後、居を構えた大坂城(大阪城)で度々開いた宴の席には利家まつ夫妻は別格のもてなしで招かれていました。利家には十九人の子供がいたが十一人までを産んだ。利家が没すると、まつは剃髪し「芳春院」と号する。その後、徳川家康の前田家への嫌疑を解くため自ら江戸に下った。長男の利長(二代藩主)が没するまで15年間も人質として江戸に在住した。この戦国武将の妻としての行動のおかげで、前田家は生き残り加賀百万石の伝統文化を花開かせることになった。七十一歳没。
千世
(寿福院)
金沢城三代藩主の利常の母千世はまつが最も信頼する侍女であった。
1592年秀吉は挑戦出兵を命じたため、利家は八千の兵をひいて、名護屋(佐賀県)に向かう。秀吉はここに淀殿や松の丸殿を伴い、能・船遊び・茶湯などで優雅な日々を送っていた。秀吉は名護屋にいる諸将の士気が衰えるのを心配して、夫人や、また夫人に代わる女の参陣を許した。利家不在の金沢を留守にする訳にはいかなかったので侍女、二十三歳で容姿も整った千世を送る。名護屋城では百十数の諸大名の陣屋が置かれ・商人や遊女まで集まり・15万人を超える大都市だった。そして秀頼誕生から三ヶ月後に利家の四男・利常を生む。千世は利家が死ぬと髪をきり寿福院と号する。秀忠の次女・珠姫は三歳で九歳の利常と結婚。2代藩主の利長は徳川が将軍になったために、この利常を自分の嫡子として家督を譲る。幕府は芳春院を江戸から解放しなかったが、利長が重い病気になったときに寿福院は芳春院の身代わりになる。寿福院の実家の上木家は一家あげて日蓮に帰依していたため、生涯を信仰に生きる。六十歳で江戸にて没。
永姫
(信長の娘)
前田家で恵まれた人生を送る。信長自身が嫁ぎ先を選んだ最後の娘だった。永は九歳で二十歳の利長に嫁ぐ。信長亡き後、利長は秀吉に気にいられ、関が原直前には、徳川方か豊臣方かで悩み、母を江戸に出し、徳川への加担を決める。そして前田家をつぶそうとする幕府との対策に神経を使う。この利長の家庭での悩みは子供ができないことだった。異母兄弟の利常に利長は44歳で家督を譲り、高岡城に住む。永は夫の死後・九年を生きて五十歳で没。
豪姫 豪姫は利家の三女・信長の武将時代、家が隣同士だった秀吉夫婦が子供がいなかったので、今度生まれる子が男でも女でももらう約束をしていて、産声を上げると同時に、秀吉が袂にいれて連れ帰った。この豪姫とともに秀吉は養子とした宇喜多秀家を愛した。岡山城を守る側室のおふくの子供である。秀吉は天下をとると秀家に岡山城を与え・豪姫をその妻とした。豪姫は贅沢に馴染んでたちまち宇喜多家の財政を破綻させる。だが秀家はこの妻を愛した。関が原では豊臣についたので宇喜多軍は壊滅し、薩摩の島津へと落ち延びる。時に豪姫27歳・秀家29歳であった。三年後には秀家は息子・二人と八丈島に流され・豪姫は娘をつれて金沢に帰る。豪姫は61歳で没するが、利常は豪姫の心情を哀れんで八丈島に米や金子・衣類を送り続けた。それは明治維新まで続いたといわれている。
長齢夫人

利家の母。竹野氏の出で、利家をはじめ六男二女をもうけ、天正元年(1573年)に没している。院号「長齢院」。山の寺寺院群の長齢寺は、長齢院の院号から付けられた

末森城・
安(つね)の方
1584年、前田利家の武将・奥村永福がわずか三百の兵で篭城・越中の佐々成政、1万5千の兵に包囲された。本丸を残すのみとなった末森城の低下する士気を奮い立たせたのが安の方だった。大釜でカユをたかせ、酒の用意をし、長刀をもち城内を励まして歩いた。激戦三日・ついにきた援軍に佐々成政の軍は追い払われた。
この勝利で利家は秀吉の信頼を勝ち取る。