私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史 戦国の女たち お市の方

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お市の方の系図

戦国の女として、象徴的に取り上げられるお市の方。

「織田系譜」では、その名さえ書かれないが彼女に始まる女系図は華やかである。
娘は浅井長政との間にもうけた3人、
ここから始まる。

小谷城で1573年に夫の浅井長政が自害する、
そして小谷城落城から十年後、
再婚した柴田勝家に殉じ、越前北の荘城で死んだ。
お市は成長する三姉妹に「浅井家の人間であることを忘れてはならぬ」と養育した
 名 前    どんな女(人)だったか?
 万福丸 長男の万福丸は信長の命により串刺しの刑で殺された。
 茶  々 淀殿の名は秀吉の愛妾として山城国に住んだからであるこうして秀吉の庇護のもとに入った茶々は伯父、信長が築いた安土城で足掛け六年の歳月を暮らす。鶴松(棄)を生んだが十二歳で死去。秀吉亡きあと、大阪城には二つの派閥ができていた。秀吉と修羅場をくくってきた尾張衆、それに淀殿の出身地近江州。秀吉に恩顧のある大名たちは、ほとんど徳川側についていた。保身のためもあるだろうが秀頼出生についての本当の父親は誰なのか?の噂が絶えなかったことに関係はないのか?秀頼は火を放った土蔵の中で自害する。淀殿49歳、秀頼23歳
 お 初 京極高次の妻。豊臣と徳川に別れた姉、淀と、妹お江与の間で中立を守り、大坂の陣では和平の使者になった。
 作 庵 十二歳、賤ヶ岳合戦の時、秀吉軍の若武者として参加。皮肉にも柴田勝家に敵対。関が原の戦いでは讃岐領主生駒親正に従い、大坂方に味方して破れ、作庵は徳川から睨まれる。だが親正の子、一正は家康に味方したため、生駒家はそのまま存続。作庵も一正のもとで復活。大坂の陣では淀殿に味方する。徳川実記では「関が原の一戦に敵となりしを許したる恩を忘れ、再犯の罪許すべからず」と家康は怒った。作庵は探索の厳しい網をかいくぐり、小浜の姉お初を頼った。たが母の死後、四年で忠高が死に、嫡子がいなかったためとりつぶしになるが、お初の大坂の陣などの功で、甥の高和が京極家相続が許された。このころから彼は京極作庵と呼ばれる。90歳で死去。
 お江与 姉妹の中で一番数奇な運命をたどった最初の夫は尾張の国大野城主佐冶与九郎。二女をもうけるが、与九郎を疎んずる秀吉によって強引に別れさせられた。佐治は領地を召し上げられて出奔。彼との間にできた二女のうち一人は入水し、一人は尼になったといわれている。お江は大阪城に連れ戻されたうえ、羽柴秀勝に再嫁させられる。だが二度目の夫となった秀勝は朝鮮の役で没し、お江はまた秀吉により秀忠の元に嫁がされた。年下だった。徳川秀忠は父家康の言葉を守る温厚な人物。お江は自分の保身にかけては冷徹、過去をさっぱり忘れられる質を備えていた。お江の生んだ家光は3代将軍、妹和子は後水尾天皇に。
秀忠は侍女に産ませた男子を彼女に遠慮して保科正光の養子(正之)とした。