私の小さな旅 北海道の文学碑と歴史に戻ります戦国の女たち、はじめに戻ります


本願寺 蓮如と女たち

蓮如は、父は本願寺七世・存知で、応永二十二年に生まれる。母とは六歳で生別しました。
二十八歳前に如了尼と結婚したが、やがて死別。以後、蓮祐尼(如了の妹)・宗如尼(前参議藤原昌家女)・蓮能尼(治部大輔源政栄女)と各々死別し、順次結婚した。長禄元年(1457)6月18日父の存知没し、43歳で継職、本願寺八世となります。以後、近江・摂津・三河などに活発な布教活動を展開しました。近松に移り、翌年坊舎を建て祖像を移しました。そして文明三年(1471)越前吉崎へ移り坊舎(吉崎御坊)や多屋を建てると、北陸の門徒や蓮如の教えを慕う新たな信者が数多く参集し、二年ほどの間に御坊の周りに200軒もの家が建ち並ぶありさまでした。去るまでの四ヶ年の間に、蓮如による浄土真宗本願寺派の教えが、北陸地域の武士や民衆の間に急速に広まっていきました。
真宗教団での念仏者集団における同朋精神(弥陀の前では念仏者は全て平等であるという考え)の強調を通して、「阿弥陀仏」の救いを説く蓮如の厳正な宗教家としての態度と、「御文(おふみ)」と呼ばれる、蓮如の教えを分かり易く書き記した消息(手紙)の発行による布教方法が、遠くにいる人々にも教えを広めるのに大きな効果がありました。特に今まで恵まれなかった農民や手工業者、行商人など、いわゆる下層階級の人々には、この教えは分かりやすく有り難い教えと受け取られました。
10世証如(しょうにょ)が大阪石山に復興。
豊臣秀吉、徳川家康がそれぞれ土地を寄進し,京都に西本願寺と東本願寺がたった

(蓮如は灯油を惜しんでマキであかりをとり、月夜にはマキさえも節約して宗典の書写にいそしむ。
父にかわり、門徒に聖教(教典テキスト)を授けもした。)
蓮如は親鸞の「人間はみな兄弟なんだ」の精神を実践する
阿弥陀仏の慈悲は、身分・階級・男女の差別なく、等しく広い。

蓮如の母 女中をしていたが19歳の父存如が手を出して生まれた。母は周囲の白い目にたえて蓮如を育てる。存如が妻をもらうのにあたり、なけなしのお金をはたいて、鹿の子の小袖を蓮如に着せ、絵師にその姿を書いてもらって、それを形見にのこして去っていく。
如了 蓮如は28歳で如了と結婚し、彼女が病没する13年間に4男3女をもうけたが、
長男・順如をのぞき、すべて口べらしのために里子にだす。
連祐 如了の妹の連祐と結婚し。三男七女をもうけるが、連祐は北陸に移る前に死ぬ。
如勝 蓮如の三番目の妻・如勝は戦火に追われ、放浪する。蓮如が本願寺普教の拠点とした北陸の吉崎道場(福井県金津)に下働きの場を得る。連祐の残した子供達の世話をみているその優しい姿が子供に慕われ、蓮如と結婚。だが体が弱く、娘・妙勝をもうけ、産後の肥立ちも悪く、三十一歳で他界。
宗如 一男一女を残して他界
蓮能尼 二十一歳のころ、50歳も年の離れた蓮如の妻になった五男二女をもうける、
巨大な勢力となった本願寺教団は、それだけで諸国の領主たちに恐れられる存在になっていた。と同時に、それを維持していくために、本願寺は時の権力者に協力する。蓮能尼は山科本願寺の南殿にて1518年、9月3日未明の沐浴して頭をそり、石を枕に莚をひき、入滅。54歳
如春尼 顕如上人が示寂すると、教如上人が継職した。しかし、如春尼は三男准如上人の方が好きだった宛てた譲状(現在の定説では母の如春尼派の偽作とされる)にもとづいて、教如上人は隠退させられ、准如上人が本願寺第十二代を継いだ。この決定は豊臣秀吉によるもので、本願寺教団を抑え込むために既に豊臣秀吉は現在の西本願寺の寺地を寄進していた。一方、隠退した教如上人は、関ヶ原の合戦の際には徳川家康の陣中見舞いにかけつけた。徳川家康が政権を掌握すると、(家康は伏見城での会見で教如上人に本願寺への復帰(継職)を申し入れるが、教如上人はあくまで固辞したため、東方の大物である本多正信の進言を受けて)家康は慶長七年(1602)教如上人に寺地を寄進し、翌年には家康の配慮で上野の妙安寺から、宗祖の木像を迎え、御堂を建立して安置した。一寺(東本願寺)を別立すると、教如上人のもとに加わるものもあった。やがて門徒の集合離散が活発になり従来の本願寺教団は東西にほぼ半分に分割されて現在に及んでいる。